なぜ北欧音楽を? その3

解決編にはならないかもしれないが、現在に至るまで心にあることを書いてみる。

 シベリウスは1865年生まれである。フィンランドには今手元にある資料では1761年生まれのエリク トゥリンベルクから現在に至るまで70名余りの作曲家が協会に登録され、今尚増えつづけている。19世紀、1800年代に入るまではほんの数名の作曲家の記録しかない。ほとんどがシベリウスと時代をともにする、又はそれ以後の作曲家である。シベリウス前の大事な二人、マルティン ヴェゲリウスが1846年生まれ、ロベルト カヤヌスが1856年生まれである。一方日本は1868年に明治時代を迎える。大まかな言い方だが、いわゆる、クラシック音楽という形がその国に認識され始めたのがフィンランドと日本ではほぼ同じ時代から、と言ってもいいだろう。文化意識も社会構造も全く異なり、人口も500万人と1億を越す国家では様々な違いは当然あるが、この同じ時代にクラシック音楽に接した国家がどう歩んだか、という比較がまずとても興味を引きつづけているということが第一の理由である。比較の結果の具体的なものは追って書いてみたい。因みに、フィンランド音楽情報センターでは、そのサイトにクラシック音楽という項目はない。コンテンポラリーというコンテンツに含まれている。

 第2に民族的親近感である。音楽作品そのものから受ける印象イメージに、非常に近い感性を感じる。学問的な意味でではない。旋律の香り、旋律の律動感、リズムの傾向等等。ゲルマン系の北欧である3国とフィンランドではやはり異なるが、それでも両者ともに共通する色合いが感じ取れる。これがこの前のエッセイに書いた、海を周囲に持つ民族の詩なのかもしれない、と感じたわけである。もちろん実験的な作品も現代は多く作られているわけで、すべてがこの傾向の作品というわけではない。ましてや北欧の作品イコール癒しの音楽という定義も以前にも書いたが大いなる間違えだと思っている。

 フィンランドが非インドヨーロッパ語族であり、フィン―ウゴル系として我々アジアの民族と繋がりを持つということは知られている。フィンランド人の特性の一つに「寡黙、忍耐」というものがある。たとえば数人でテーブルを囲んでいて話題が途切れたとき、沈黙があっても平気だという気質である。昨今の日本ではその気質は遠のいてしまったかもしれないが。その、自分の前に広がる空間を静かに感じ取る、といった言葉に出さずとも―ということが同じように存在していた。流行の言葉でいえば、空気感などに気質の似ている面を感じる。ラハティ響のメンバーから良く聞く話に、来日公演の際 実に日本人の感性が自分達と似ていると感じた、というものがあった。シベリウスを一番良くわかって聞いてくれるのは日本だった、という発言もあった。そしてフィンランドで体験したことであるが、多くの人の集まりでも実によく人の発言を聞く。しっかりと聞く。静かに聞く。相手が何を心の中に持って言葉を発しているのか、じっくりと聞いてくれる。シベリウスの作品を聞き取る耳には、まさに耳を傾けるという姿勢が必要だと感じている。忍耐の性質はその歴史的姿勢で明らかであろう。スウェーデン、ロシアという両大国に支配をされていた時代でも決して民族的な誇りを失わず、かつ無謀な行為もなくひたすら時期を待ったという近代の歩みはフィンランド魂<SISU>と言えよう。

 そして第3に自然の美、厳しさ、怖さ、様々な現象が作品の音符の隙間から見えること、それに何よりも惹かれる。私にとって札幌で過ごした子供時代は何よりの宝物の時間であった。厳しい冬に初めは泣く思いだったが、すぐに冬と友達になった。そして白く暖かい雪の存在がまるで心のクッションとなっていくわけである。雪の結晶をご覧になったことのある人はその形状の豊富さ、複雑さ、自然の美にきっと感動を覚えるであろう。冬の夜に窓越しに様々な形を見つける喜び、それを手のひらに受けいつまでも残しておきたいと思った記憶など雪国育ちの方々は同じ体験を持っていることと思う。吹雪の恐ろしい叫び、吹き溜まりに落ちたときの恐怖、木々を飾る綿帽子も時として家々を押しつぶすものとなる。そんな厳しさももちろんシベリウスの作品に、フィンランドの作品に、見えるわけである。

 シベリウスの作品に特徴的な、独特の弦楽器のトレモロは様々な自然現象を表す。雪の結晶のごとく微細ながらゆるぎない美しさを持って。そして人間が出てこない。人間の想いなど大自然の悠久の時間の中では些細なこと、といわんばかりに冷たく通り過ぎてゆく。描くまでもない、あたりまえに自然の中で生かされているほんの一種類の生物にしかすぎないんだよ、とでもいわれているような。しかしその中に聴く人の存在が自由に行き来し、作品の時間の流れと共に自然界と魂の交錯ができるのである。それが北欧の作品の魅力だと思っている。尊大でいまや地球生命を奪おうとしている人間の存在を ただひたすら静かに見ている眼差しをそれぞれの作品に感じる。一人の作曲家の強い想いや慟哭や嘆き苦しみなど、感情の嵐を描いた作品が不思議と少ない北欧。

 癒しという言葉がバブル崩壊後盛んに使われるようになり、そのコンセプトで北欧の作品がメジャーになってきた。上記の特性ゆえ聴衆に癒しの効果があるのは自明である。だがそれだけではないし、それを目的としているわけではない。厳しい寒さに暮らす人、酷暑の中で1年を過ごす人など、人は生を受けた場所でそれぞれの文化のもとでひたすらに生きているにすぎない。自然に恵まれた国家だから とか癒されている人々だから、と外側から勝手に判断するのは危険なことである。その環境の中で人間の営みは皆同じようにあるわけだ。ただ、独立独歩で自然とともに生きる道を文明の中で見出した北欧の歩みは人間としての叡智だと思う。恵まれた社会のように見えるが、国家への国民一人一人のノルマは大変なものである。贅沢など庶民はできる余裕はない。彼等の財産は周囲の素晴らしい自然であり自然の恵みなのだ。それは共有のもの。それを守るためなら多くの我慢もする。人間として義務も果たす。そのような姿勢を多く見てきて日本人として同じような広さの国土を持つ国民として、これからでも学ぶべきものが多いのではと思うわけである。社会的意味でも北欧からは目が離せない。

 「ラスコーの洞窟絵」に惹かれてから考古学も好きだった私だが 今は楽譜の山の中で音楽作品の発掘もしている。指揮者としての仕事の一つに 同時代人の作品をいかに音にしていくか、ということがある。音楽家は歴史の連続性の中で過去のもの
を掘り出すと同時に、未来への音楽の可能性も見つけていく使命があると思っている。特に指揮者はその感覚が大切だと思う。世界に数多ある音楽作品すべてには一生かかってもお目にかかれないわけで、限られた場であるがそれでも多くの作品を世の中に音にしていく場をこれからも模索していこうと思っている。クラシック音楽作品は中欧だけのものではない!という思いを込めて。

2002年10月22日
 

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