2006年を前にして~2005年からのバトンタッチ~

毎年年末には「総括」のようなことをしてきたが、今年はゆっくり振り返る時間が年末にない。少しずつ記してみようと思う。おそらく乱文になることをご容赦・・。
 
 日本も世界も2005年は「めちゃくちゃ」の一言に尽きると思っている。でもいよいよごまかしがきかない「めちゃくちゃ」であることが明らかになったので、きっと次の時代への覚悟が多くの人の中に芽生えたのではないかとも思う。どういう覚悟であるのかは、さておいて・・・

 地震に始まる災害が多かったのも昨年から引き続きのこと。そしてその対策が決して十分ではない、ということも良くわかった1年だったと思う。世界から見ると「お金持ちの国」と言われる日本だが、使い方はあまり上手ではない。少なくとも日本が誰のため、何のために存在しているのか・・・日本は自然災害が宿命の国家であることは誰もがわかっているのに、その点に対してとても日本国家は覚悟がないままある時期を謳歌してしまったと思う。そしてこの年末にまさに噴出している「耐震偽造~」問題。このタイトルをつけたことで問題の解決にしてしまう畏れもありそうなので、書きたくない銘銘だが・・・問題はもっともっと深いところにあって、それはこの60年間の日本の歩みすべてに原因と責任があると思う。

 自分が関わっている音楽文化・芸術文化はよく国境がない、と言われる。それは事実でもあり間違えでもあると思う。国境を越えて理解を得られたり、共感を得られたり・・人間としての普遍的なメンタルな部分に訴えかける芸術としてもっとも国境がないと思われるのは事実だ。しかし・・本当はそれぞれが見事に異なっていて、実は理解しているつもりになっているのかも・・ということが存在するのも事実。間違った普遍性を認めてしまうと、豊かな文化が閉じ込められてしまう。その違いを見つけて、違いを理解したときに本当の国境のなさを得られると思っている。

 言語の影響は大きい。そして自然環境・社会環境・・すべてのことがこの繊細な生き物である音楽には影響している。それぞれの国家が営んできた歴史の中の時間、空間・・・そういうことへの理解と想像力も非常に必要になってくる。作曲家はその中に存在して書き記しているからだ。隔絶された異次元で機械を相手に書き記しているのではない。異なる文化圏への尊敬と畏敬の念、そして憧憬と洞察・・・そういう姿勢が音楽家には必要だと思う。楽譜には音符や符号で書き記されているだけであるが、その裏にあることの大きさ広さに対して、半ば恐怖心を持って臨む日々だ。

 昨年から今年にかけて世界中を駆け巡った争いごとは、正直のところごくごく少数の「欲」の塊の人間が生み出していることに過ぎないとも思える。他の場所でも書いたが、自分の手元に莫大な財産や地位を持っても、それを次の世代に残せないような国家運営や組織運営をしていては、いったい誰のため???という話になる。つまりは今の為政者の満足のためでしかない。そんなまったくもってつまらない理由でこんなに美しい星を壊されてたまるか!というのが、今の私の心境であり、音楽する上にも少なからず影響を与えている。

 作曲家達は多くのメッセージを残している。個人的なこともある、美しい日々への憧憬もある、後悔も懺悔もある。未来への予言もあり、世界への怒りもある。そういうことは人類すべてのすばらしい共有財産だと思う。だからできるだけたくさんの素晴らしいメッセージを多くの人に聞いていただきたいと思う。それも無理のない環境で、ごくごく自然に、日常の中で。それはクラシック音楽だけの世界ではない。ロックミュージシャンは、明確な言葉と強い音で昔から世界に対して音の言葉をぶつけている。邦楽の世界は、和の空間の非常に密な狭い中に、広大な宇宙の神秘を奏でている。同じような語法を使っても、インド音楽などは地球を飛び越えて銀河系まで見渡すような音楽の響きを持っている。北欧の民族音楽も極寒の大地に、たった一人でも宇宙と対峙できるような叫びを持った音楽がある。アイヌ民族の響きも同様。まだ自分では聞いたことがない音楽はどれだけあるのだろう・・・それを考えただけでも「生きなくては」と思うのである。

 2006年はモーツァルトイヤー。早くも企画は目白押しで世界中がひとりの偉大な作曲家を取り上げる。またショスタコヴィッチもメモリアルイヤーである。私は札幌で8歳のときに彼の交響曲第5番を耳にしてある種の恐怖と恐ろしい笑顔を感じた時から、彼の音楽は自分の中に鳴っている。だから自分にとって2006年はショスタコヴィッチイヤー。実際に音にする機会はあまりないと思うが、まとめて改めて勉強してみようと思っている。そして続く2007年はもちろん、シベリウスイヤー。こちらはすでにいろいろな企画が動き出している。もちろんメモリアルイヤーだから・・ということでは決してないのだが、様々な理由で取り上げにくい(主に楽譜の問題のことなのだが)ことを、この機会に行えることは嬉しい。誤解を恐れずに言うならば、今の自分の細胞の一部になっているシベリウスという作曲家と、とことんつきあう日々がまだまだ続く。

 先日、英国のシベリウス協会会長であるエドヴァルド・クラーク氏から非常にうれしいメッセージを頂いた。以前演奏したシベリウスの第3番の交響曲に対して、最大級の賛辞を頂戴した。すぐにオーケストラの代表の方にもメッセージをお送りしてお礼を申し上げた。もちろん作品への解釈は様々であるので、一つのあり方として認めていただけたことなのだと思う。しかし自分が意図していたことが、そのまま理解されていた文章を頂いて何よりの励ましとなった。

 文化が国家間の溝を埋める役割を担うことは多々ある。今地球が一つの大きな危機を迎えている時代に入っている。目先の利害関係だけで政治経済活動がなされれば、ごくごくわずかな時間しか地球の寿命はないかもしれない。地球を地球と有らしめているのは、人類の存在だ。それも生命の一部として、叡智を授かった人類の存在があってこそ。人類は偉大でもなんでもない。役割を持って存在しているだけにすぎない。それを意識したときに、はじめて人類の存在が輝くと思う。世の中は怒り悲しむ民族を慰めるための音楽文化ではなく、驕り高ぶった人種が悟り気付く文化が緊急に必要なのかもしれない。彼らには金塊と狭量なプライドしか見えていないのかもしれないが・・愚かな為政者たちへの怒りは人々の中に噴き溜まる。その解決を手近な利益で行ってきた近代はもう壊れようとしている。「怒りの日」を強く奏でたい心境の
日々だ。

2005年12月22日

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