見事にこのページにエッセイを書かない月日が流れた。2007年の北欧音楽アニバーサリーイヤーを契機に様々な場所から執筆の依頼を受けることが増えて、こちらに書く余裕がなかったというのが本当のところ。とりとめのないことはブログに書き散らすようになり、自分の一つの自己整理、リラックスの方法である「書く」ということがその二つに集約していた。
中日新聞のコラムもお蔭様で2年続いている。掲載文章としてまた後日ウェブにアップの予定。クラシック音楽というカテゴリーで自由に書いてほしいという依頼のもと、本当に自由に書かせていただいている。実はあまりクラシック音楽そのもののことを書いていない。このジャンルが関わる様々な世界との繋がりや関係から生まれる問題や面白いことなど・・・そのあたりを書かせていただくことが多い。持論だが、専門的なことは音楽を聞いて興味を持って自然に知りたくなり調べる・・・という流れが一番良いと思っているから。それでも今年度あと3回は少し専門的なことにも触れてみたいと思っている。
ブログの乱文にもあるように、悲しいかな日本は完全に迷走している。航路の先を見ずして心地よい海の上を漂流していただけに過ぎなかった日本。心地よさを享受していた人々はその変化を望まず、見ぬふりをしていたことが蓄積してしまった。そしてついに爆発!
ブログに書いたこと・・・ 2007年に来日講演を行ってくれたシベリウスアカデミーの学長の言葉に、「他の国のことはよく見えるものだ」「その国によいことがそのまま他の国でも良いというわけではない」「それぞれが文化と歴史を支えに自分のやり方をみつけていくことが大切」要約するとそのようなメッセージを最後に残してくれた。
安易に人の真似をしても駄目だよという警句。
そしてフィンランドの特徴・・・ フィンランド人のプロジェクト好きは良く言われることだ。よいと思われることはどんどん進められる。風通しが良く、効率的で合理的なシステムが政治を初めとして様々な機関にみられる。平等の意識 tasa arvo がもたらすクリーンな社会。
報道番組の中でフィンランドの首相が発言していた「政治汚職が少ないためにできること」
同じような気質を持ち、非常に親近感を覚える日本とフィンランドという表現はよくされるし、私自身も実際そう感じているが、このクリーンな社会を作る土壌が日本には残念ながらない・・・いや、なかった。新しい国フィンランドだからできるクリーンな政治とも言えるだろう。大国のもとで苦労を積んだ長い歴史の中から学び取ったことを、建国90年の歴史の時間で試行錯誤しながら、そして常に改革と改善の精神を持って賢明に実践している国フィンランド。
日本の政府の情けなさは言葉にするのも悲しく思うが、そういう政治家たちを選びその下でこれまで社会を構成してきた責任も国民にある。クリーンではすまない部分で恩恵を蒙ることがこれまでありながらも、現在の「過去の常識」が通用しなくなった状況下では、急激に日本社会の問題点が暴き出され、自分たちの足元にやっと視線が落とされるようになった。
一気にリセットして解決を!という気分が若者に多いという調査も正月に出ていた。社会をゲームのように考えてほしくない。そのリセット思考が日本の一番の欠点だと思う。
日本が長い歴史、豊かな文化を背景に持つことは紛れもない事実で、そのことをもっと自信を持って誇りに思って前へ進めないものか。ゼロか100かではなく、悪いところの暴き出しで疲れてしまうのではなく、できることを片っ端から良い方向へ動かしていくだけで良い。
残念ながら国のリーダーは自分の首を絞める発言を続けているようだ。生きるお金の使い道をご存じない。国家を育て、人を育てるということにポリシーがない。地球の中で日本が何をできる国なのか、先を見る力がない。何を生み出していくことが、何を生産することが日本のためになり、世界のためになり、地球のためになるのか・・・・すでにそこまで考えて国を動かす時代になっているのにまだ過去の遺産のような思考で固まっている。
1億2千万の人口の国土と、524万人の人口の国土面積がほとんど同じ。(フィンランドは日本の国土の9割ほどの面積だ)そういう条件にある日本という国の中で、知恵を持ち才能溢れる若者たちが伸び伸びと腕をふるえる環境を作っていくことを真っ先に考えなくてはいけないだろう。国土が狭いということは一つの宿命運命だと思う。狭いながらも楽しい我が家を作っているご家庭は、英知の塊だと日ごろから思っている。昔の日本はそうではなかったか・・・。近代の日本は狭い国土の利用方法、開発方法、未来への可能性を見つける方向を完全に間違えてきてしまっているように感じている。
宇宙船地球号が21世紀航行を全うできるかどうか・・・2006年のエッセイに黄色い信号を感じることを書いたが、なんとかこの黄色い信号を青に近づけるようにしたいと思う。
自分にはたいした力はない。しかし自分が関わっている部分で少しでも未来への橋渡しの役割ができれば・・・
音楽大学の末席に関わる自分としては、「学費の高い日本の大学よりも海外で・・・」という若者が増えている現状を厳しく、しかし柔軟に受け止め考えたいと思っている。実際世界のクラシック音楽界はすでにあらゆる文化の融合統合の中で新しいものが生まれている。日本発信の教育、日本発信の音楽文化を日本で学ぶ機会という定義で世界への窓口をもっと開いても良いと思う。
現在はアジア諸国からの留学生が増えてきている。日本の音大には演奏技術習得の機会が多く実践の場も多い。楽器も良質なものが揃い、ホールもたくさんある。環境は本当に世界的に見て郡を抜いている。その場所を開放してゆくこと、より高度な技術と文化内容を高めていくこと。それはもっと広い世界と連携してもよいかもしれない。
世界に羽ばたく音楽家が増えているとは言え、弱点もたくさん持つ日本のクラシック界。それは個人レベルの話ではなく、教育に問題があると思っている。環境がよくなるにつれ疎かにされてきた部分、目が届かなくなっていった部分、大切なことを育てるのを忘れているように思う。
大学運営が少子化と予算削減の影響で厳しくなる一途であることも、これも一つの運命。現在の体制のまま、ただむやみに国内の学生争奪合戦を繰り広げても、あまり実り多いことにはならないと思っている。ある時期むやみに作ったハードの部分にも目を向けるべきだ。紙面で大学の専門学校化という記事を
見た。音大もその流れが一部にある。それも一つの学生獲得作戦なのだろう。それぞれに対策を講じ切磋琢磨する時代がしばらく続くのだろうか。立派な校舎、施設というハードは中身の充実とともに本当に光輝く。大学がやるべき使命は何なのか、本当の知力、知識、技術を身に付けて社会に貢献できる人材を育てること、輩出すること。
大学が社会への一つの通り道でしかなく、卒業した証のバッジを付けていれば何とかなった世の中はもう終わっている。専門を持つということの厳しさを大学はもっと学生に課すべきだと思う。その代わりその力を身につける時間は人それぞれで方法も様々であってもよい。乱暴な意見だが、入学のハードルは下げて卒業のハードルを上げるということを日本の大学は行わないのか。形骸化した一律の教育機会などは無意味だ。
現状でも大学は出たものの現実の社会で力が発揮できない、対応できないという若者が多いという声も企業の方々から聞えてくる。一方大学卒業の肩書きは持たないものの、即戦力を持ち人間力が高い人も大勢いる。社会の受け皿が本当に人間を見る力を持っていれば、そこをめざす若者たちの道の選択肢は広がるかもしれない。
危機的状況といわれる今の日本に必要なこと、政治家や専門家の皆さんが年頭から様々な提言をなさっている。私自身は、「第一次産業に戻ろう」の一言だと思っている。資源はない、国土は狭い、食品は輸入頼み、作った工業製品は売れない。そんな日本の寿命が短いのは誰でもわかる。他の国の国土を当てにするのではなく、我々が持っている科学技術と知恵と恵まれた四季を持つ環境を併せて、一時期つぶしてしまった広大な田畑を国を挙げて再生することが第一なのではないか。
北海道で農業の形態が変わってきているという話を昨秋伺った。多くの人が一つの農場にかかわり、企業化して経営する。もはや一つの家族で農地を管理する時代ではないという。日本全国の人が離れていってしまった農地を方法をかえて活性化させることが急務なのではないか・・・。食の安心は自分たちで責任を持つことからも始まると思う。フランスの広大な農地を見ていて、「これはかなわないな・・・」と感じた昨秋の旅だった。
現在の自分の音楽環境、レパートリー、どれをとっても自然と切り離せない。なぜなら作品を生み出した作曲家たちが自然の恩恵への感謝を音にしていることが多いから。幸い自分は幼少の頃自然溢れる大地で育った。その環境への憧憬と感謝は一生続くだろう。人間の営みの中での精神活動、喜怒哀楽、慟哭、呻き、叫び、歓喜・・・が芸術の形となり文化となっていく。人々の手を通して人類の歴史を歩んでいく。その原点はすべて命。命を生み出しはぐくむものは人間単体ではなく宇宙に存在するすべての物質、生命体。
政治も経済も文化も46億年前の地球の誕生の中で、わずか700万年前からの人類が生み出したほんのここ数千年ほどのできごと。せっかく知恵をもらった人類がこの命のバトンを渡し損ねたら、それこそはるかかなたのどこかの銀河系で地球を見ている異星人に笑われそうな気がしている。
音楽家としてその命の連鎖への関与は、作品を演奏し続けること。300年前のものも昨日生まれたものも、またこれから生まれてくるものも。すべて同じ次元で考え接するようにしている。人気の高い売れ筋の作品ばかりを演奏することは芸術の危機となる・・・と同世代の指揮者が紙面で語っていた。その通りだと思う。300年前の名曲と昨日生まれた作品との価値を問うのは、実際に演奏されなくては判断できないこと。興行的な判断で闇に葬られる作品が多い現状には、一生戦っていきたいと思っている。そういう同志も増えているのは心強い。
とてもちっぽけな一人の女性の指揮者にすぎない自分だが、オーケストラの皆さんと一緒に生み出した音がホールのお客様の記憶に残り歴史を少しでも歩むことができれば、700万年後の人類の一人として少し誇らしい想いである。
こうして自分のウェブサイトにエッセイという形で書かせていただくのは、これが最後です。リニューアルしたサイトでは外部に掲載されたものを中心に。そして時々つぶやきをブログにまとめて書かせていただきます。このエッセイがきっかけで頂いた連載やインタビューも多かったこの6年。恐縮してしまう出来事ですが、自分が素晴らしい音楽芸術から頂いたこと、哲学や思考や思想、魂を別な形でまた多くの皆さんと共有できる機会が増えたと思い、引き続き執筆活動も続けてまいります。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
2009年1月8日