音楽と言葉 その1

しばらくエッセイから遠のいていましたが、復活です。

 音と言葉―というと、かの名指揮者フルトヴェングラーの名著がある。また丸山圭三郎氏による、言葉と無意識―という15年ほど前に出版された新書も興味深い。音楽家にとっての言葉、というのは二重の意味があると思う。文字通りテキストとしての言葉、そして音という抽象的なものを具体化していくときに用いる言語化という意味での言葉、あわせて無意識の領域、感情、情念などを音と結び付けていくときに用いる意味での言葉。音楽家はこのことを無視して音楽作品に接する事はできないと思っている。

 オペラを指揮する時にはかならずテキストがあり、その言葉の意味を知る事は必須、そして更にテキスト上の文章と作曲家がそこからインスピレーションを得て作り出した音楽との関連の分析を行う。もちろんその後ろにテキストが成り立つための作品の背景、作家の情報、時代背景などもろもろのこともあらかじめ知らないといけない。台本を作った人間、又作曲家がその言葉を日常語としていたか否か―も大事な判断材料である。モーツァルトの作品でのイタリア語というのはしばしばその点が大問題となると感じている。

 日本人にとって西洋の音楽に接するとき言葉の壁がある、ということは皆身にしみている。これは日常接する事が少ないわけであるから当然のハンディである。しかし単に言語を学びその構造を理解したからといって、そこに結びつく音楽が理解できたか―というとそうでもない。その二つの間に掛かる大きな橋を自分で見つけ築く事が必要だ。つまり音と言葉の関連性への鋭い感性が求められる。

 たとえば米国育ちの宇田多ひかるさんは米語というものを自分の概念の領域で処理できるまで使いこなしていたから あの数々の作品が生まれ歌いこなしているのだと思う。若いうちから海外で生活をする環境にあった日本の音楽家は やはり演奏のスタイルが違う。これは演奏技術や音のレベルで違うというより もっと根源的なものが理由であろう。つまりは欧米の作品が生まれる場所の言語を自分の耳で知っているか否か、ということである。

 なぜこれを書き出したか、というと 以前聴衆として接したオペラの公演で あらためて「言葉の壁かな」と感じた経験があったからだ。非常に優秀な演奏で見事な音で、しかし何かが違い海外からの歌手とも完全な調和がなされていたとは思えなかった理由。これは経験がない―とか、作品を知らない―とか、はたまたオーケストラの能力が問題―とか、そのようなレベルの話ではないと思った。聴衆が海外からの演奏家、演奏団体と邦人のそれに感じる違いは何なのか、ということまで関係するかもしれない。少しこの項を続けてみようと思う。

2002年11月14日
 

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