音楽と言葉 その2

この秋は聴衆になることも多い月だった。その中でも度々この命題―音楽と言葉―を体感した。

 あまりに重要な問題を掲げてしまったので、公演の合間にとても書く気持ちにはなれず、珍しくも一月間があいてしまった。又寄り道をしながら書くことになるかもしれない、どうかお許しを。
脳味噌の中に多方面の情報と思考が交錯している。「人間は考える葦である」-かのパスカルさんは書いていた。このパスカルと同じフランスの哲学者デカルトに無謀にもぶつかっていったのが高校時代。忘れもしません高2の倫社の時間。(今は倫社などあるのだろうか)グループ研究で我々はデカルトを選んだ。神の存在証明など・・・正直なところ、わかったつもりになっての発表であったと今は赤面するしかない。今この時の自分の幼い思考を思い出すと、おそらくデカルトの書き記した文章から その概念をたどれたことへの喜びだけで理解と結び付けてしまったように思う。この行為、よそ様の語ったもの―文章、音楽作品、あるいは絵画―を理解するということはおよそ複雑な段階を踏まなくては本来なりたたないと今は思う。

 わかりやすい物事への共感が増す現代、深い理解と思考と独自性は益々世の中から遠のいている。誰かの言葉を借りての賛美であったり、賞賛であったり、流行物への執着であったり―でも実際当人に何を感じたか、何に価値を置いたのか尋ねても はっきりした返答は返って来ないことはよくマスメディアでの応答で見かける。この 自分の中に本当に理解や共感がないままでの対象物への共感を持つ姿勢や、ましてやその対象を語ることの恐ろしさは、今表現者として存在する日々のなかでひしひしと感じている。

 自分とは異なる言葉で思考している作曲家が書く作品を 一体どう理解し表現しているのか。とても多面的な問題だと思うので 少しずつ書いてみようと思う。
 ヨーロッパで確実に地位を築きつつある若きマエストロ、大野和士氏―以前数年に渡り私は副指揮者としてその仕事振りを傍で拝見していたが―彼が以前紙面で 日本人として西洋の音楽への取り組みの姿勢という内容で演歌について書いていた。森進一氏の「おふくろさん」が果たして日本語のわからない欧米の聴衆に理解されうるか否か、ということを提示していた。とてもわかり易い例題だと思う。
結論は理解可能である。森進一氏の独特の声質、演歌の節、コブシなどはいわゆるフィルターであるがそこを通る以前に 歌詞を音に乗せる段階で一つの情念、概念が発生している。これを明確に伝えられれば他者には伝わる。これが不在で彼独特の節回しだけをもし真似するだけの表現であったら、恐らくこの音楽の真は何も伝わらないであろう。

 これが実は逆に言うと 我々にとって西洋の音楽を表現するのに他人に伝えられるほどの理解をしているか否かのバロメーターになることだと思っている。誤解のないように言えば、技術は拙い演奏でも、なぜその土地の音楽家の演奏が価値があり喜ばれるのか、なぜこれだけ日本の音楽家のレベルが上がっているといわれても 未だにその表面的技術への賛美に止まる事が多いのか―そのあたりにもつながってくると思う。(この項つづく)

2002年12月14日 
 

目次
閉じる