悪い言葉として身内意識ということが日本でも各方面で取上げられる。閉鎖性にもつながるし、狭い視野から物事への発展性に欠けるということも生まれやすい。
フィンランドも身内意識は強いと感じる。北欧で仕事をしていたある指揮者からも「北欧は閉鎖的だ」と発言があった。友好的で又フィンランドは特に親日派が多いところでもあるが、いざ仕事となると外国人には難しい現実がある。どこの国でも同様であろうが。
しかし裏を返せば、今フィンランドは自国の優秀な演奏家をしっかり育てているという現実がある。親族関係で仕事の縁ができるという状況も多々見るが、とにかく自国の指揮者、演奏家を使う比率がとても高いと思う。これはもちろん経済状況の問題もあると思うが、安易に海外の名のある音楽家を呼び音楽界を活性化させるというようなことをしていない、また商業主義はあまり見られない、それに踊らされていないということがある。
シベリウスアカデミーを終了する時点で指揮科の学生はプロのオーケストラに割り当てられて それぞれ指導教授のもとプログラミングをし、一つの演奏会を持つ。私も研修中ラハティ響に二人の若手指揮者がその終了試験公演のタクトを取るのを見ている。もちろん練習も要領は悪いし、オーケストラからも文句は来る。いわゆるヒヨコの状態だから無理もない。しかしきちんとしたプロのオーケストラの年間スケジュールに組み込まれた正式のコンサートを務めるという責務を果たすわけである。この現場を踏むと格段に伸びるのが良くわかる。そのうちの一人が、2001年の春に東京交響楽団定期に登場したスサンナ マルッキィである。彼女はチェロが専門で後に指揮に転向。セゲルスタムの弟子だ。彼女は2000年の秋11月初めにその終了公演をラハティ響で行っていた。チャイコフスキーとプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」その他コンチェルトなどを含めた一日分のコンサート。若い故の硬さと熱心さからオケとはリハーサルでかなりもめていたが結果は颯爽とした音楽を表現していた。満員の観客も暖かな応援の拍手をたくさん送っていた。その後国内はもちろん、北欧諸国、イギリスでの活躍を聞く。
自国の演奏家に多く機会を与え、育て、そして海外での経験も踏ませるという国を挙げての身内を大事にという動き、作品の輸出ということでも、同様に言えよう。まず国内で熟成させている。自国の新しい作品を取上げる演奏会がとても多い。今年3月、若手指揮者佐藤俊太郎氏がヘルシンキフィルと古典作品の演奏会を持ったが、Mozart、Haydnという選曲「久しぶりだった」という楽員の声を聞いた。これは冗談ではないのだ。演奏会の回数はそう多くはないフィンランドであるため、年間にベートーヴェンの交響曲は2回だけ、ということもラハティでは起こっていた。そのような中で自国の作品の比率は高い。そして客足も全く変わらないと言っていいだろう。特にヘルシンキではそうだった。自国といっても、シベリウスだけではない、シベリウスと同時代の作曲家、又現代のものも同様な扱いである。今年春にはエサ ペッカ サロネン氏の個展として作曲家サロネン氏にスポットを当てた音楽週間も設けられていた。自作自演を含め1週間である。氏の多才ぶりももちろんだが、彼を世界へ送り出したことへの誇りと喜びが客足に見事に反映されていたと感じた。
各オーケストラにはレジデンスコンポーザーもいる。ラハティ響はカレヴィ アホ氏である。
新作の初演はもちろん、再演、録音という仕事をコンスタントに行っている。国家のサポートがあってのことであるが、まずは自国の文化と才能を信じて生み出す、繰り返し演奏させることで熟成させる、多くの人に問う、そして本当に良いものは残ってゆく。音楽家の育て方も同様である。今は力不足でもまずは、現場を踏ませる。このような身内意識は良いのではないだろうか。
2002年9月27日