耳という器官、意識しても機能を止めることはできない。聞きたくないものに対しては、耳栓、耳をふさぐなどなど、能動的な行為を必要とする。息を止めて悪臭を避ける、又は見たくないものは目を閉じる、などとは根本的に違う機能。これが問題である。
 オーケストラで仕事をしている音楽家は身にしみている。なんとここは耳を酷使する場所であるか、と。又残念なことに、日本の多くの音楽大学はその環境がまさに音の戦場なのである。

 ラハティ響で一番初めの衝撃は、かなりのメンバーが耳栓をして演奏していることであった。もちろんカットする周波数というものが限られていて、無音になるということではない。耳の防備のためのものである。譜面台と同じ形をした透明なアクリル板を張ったものも音を遮蔽するために多数使用していたのも驚いた。(これは後に効果が数字で見られない、ということになりラハティ響では廃止になった。)
  ピッコロの横、打楽器の前、トランペット、トロンボーンの前など直接受ける刺激が比較的多い場所に位置する楽員は、ほとんど耳栓使用である。このオーケストラはステージでの練習がほとんどであるが、袖に人数分の耳栓が箱に入って用意されていた。

 2000年10月にこの地にわたる直前まで私はオペラの仕事をしていた。Mozart「Cosi fan tutte」のタクトを取っていた。ピットの中というのも楽員にとって耳を酷使する場所である。仕掛けのあるオペラなどでは時としてPAがすぐ傍におかれることもある。このMozartのときはもちろんそれはなかったが、このホール周辺の騒音はなかなかのものであった。いわゆる東京の雑踏である。その空間からホールの閉ざされた空間に入り、音を聴くという作業、そしてオペラという響きの時差を感じ、コントロールして作り上げなくてはいけない仕事。シンと静まり返ったホールの中に入ると、いつも耳がおかしいなと感じていた。恐らく今の半分も聞こえていなかったかもしれない。

 ラハティで1年過ごして何より耳の疲れが取れた、ということが大きかった。正直なところ、疲れていたという事実も以前は気づかなかった。一月過ぎた頃、異様に音が聞き取れるという現実に気づいた。かなりの驚きであった。これはフィンランド全体の文化であるが、静寂を何より大事にする国、個人の静かな空間を脅かすものには しっかり文句を発するという社会。その賜物である。東京の騒音問題というのは様々な角度から論じられているようだが、今もって音は増えつづけている。経済効果など唱えられているが、本当にそうであろうか。CDショップなど、同時に異種の音楽をかけていることが音楽を求めに来た人々にどのようなストレスを与えているか。量販店で大音量で思考能力を奪って購買を増大させる効果も、もはや時代遅れと感じる。必要な情報が伝わらないという現状と、常に刺激を受けつづけている耳という器官の疲労を今一度考えてみるのもよいのではないだろうか。疲れきった感覚でコンサートホールに駆けつけることの危険性を音楽家としてはとても感じる。

 大きな刺激を受けつづけると、人は疲労感を覚える、無意識にそこから退行しようとしている。逆に静けさや何もないところでたたずむと 己の自発的な感性が最大限活性化され、能動的な意識が高まる。これは芸術文化一般にとても必要なことではないだろうか。
 「癒し」の代名詞として言われる北欧諸国の音楽作品。これは大いなる間違えだと思っている。「癒し」としか受け取れない側に現在大きな問題があるのではないだろうか。この問題はあらためて別に書いてみたい。

2002年9月7日 

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