プロ意識 その1

残念な事故が起きた。原因究明は専門家によってまもなく解明されるだろう。素人が勝手な情緒的な判断をすべきではないと思う。今回の尼崎列車事故はどこでも起こりうることだということだけ、はっきりしているように見える。それを防ぐのはひとえにプロ意識にかかっているのではないか。

 どんな分野でもプロ意識というものはあるが、その種類とその意識のもたらす影響力は大いに違う。人の命を預かる医師の責任は大きく問われることが多い。直接的で非常にわかりやすい責任のあり方だ。今回のように交通機関に従事している人の責任もわかりやすい。動かすのは列車や車やバスなど乗り物という道具であるが、そこに同時に人命も載せている。そのことの意識の欠如が多くなっていることは昨今目立つ。またそれは直接運転する人だけではなく、運行運営する会社としての姿勢や責任の持ち方も大事なことだろう。経費削減による過重労働、確認点検の省略・・・もろもろ重なっての事故となるケースは今までもあった。

 直接人命に関わることではないかもしれないが、例えばタクシーの運転手のプロ意識の低さに出会うと悲しくなる。素人である乗客の方が、道順や方角を良く知っていたり通りの名前をわかっていたりという状況は、本来プロの運転手は恥ずかしいことだと思う。完璧な知識はありえないかもしれないが、それを目指そうとするのもプロの務めだと思う。「知らないでごめんなさい、教えてください」という人と「東京は広くてさ、わかんないんだよ」という両方の運転手に出会うが、プロとして誇りを捨ててはいけないと思う。

 いわゆるサービス業に従事する人たちは、常々客からのクレームに怯えている。そういう構造になっている。交通機関もこの状況に置かれている。そのことも実は考えなくてはいけないと思う。日本はサービス過多になりやすい体質を持っていると思うが、プロとしてできないことはできない!という自信も必要だと思うのだ。深く広い専門知識を持って的確に判断した結果、「無理だ」「これ以上は危険だ」ということは言っても良いことだろう。最大限の努力と工夫と改革を積み重ねてた上でこれ以上は無理!といえるプロは必要だ。もし今回の事故が「正確な運行への過剰反応」であったとしたら、どこかに無理があるはずだ。

 前もどこかに書いたのだが、「人身事故」での運行への影響に関するわけのわからないお詫びの車内放送ほど、居心地が悪いものはない。この場合責任はあくまで「人身事故」を起こしてしまった当人にある。摩り替えて鉄道各社がお詫びをする必要は全くないのだ。心情察するに余りある状況であったとしても、どんなに同情心を持ったとしても、やはりあえてそれはきちんと情けと責任を分けるべきことだと思う。変な甘えやもたれあいは、立場が変わったときに自己責任を取る決意を鈍らせる要因になっているかもしれない。無意識のうちに・・・・・

 時間に追われる都会のクレームとストレスの積み重ねはもはや人間的な領域を超えている。このこと事態の危険性は、各分野の専門家だけではなくもはや国家を運営する機能を持っている政治家や政府が先頭に立って考えるべき問題だと思う。政治家はそれが専門なのだから。そして動かす力を持つ政治家に進言するいろいろな分野の専門家も、もっと力強く学説を提示するべきだと思う。得体の知れない大きな権力に巻き込まれずに。もっともその妖しげな権力というものは、非常に狭量で限られた範囲の豊かさしか考えていないのが常で、それが世界の大問題であるのだが・・

 新幹線の安全性が守られていることは日本の誇りかもしれない。ただ一方で制服を着ている方々の日常のルーティンワークになりやすい部分の気の抜けた姿も乗客には見えている。プロの気合の入った仕事振りは、どんな職場でも見ていて気持ちが良く他に与える良い影響は計り知れない。このことは今年度、急に移動が増えた自分が切実に感じることの一つだ。
 

2005年4月26日

 

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