今日は室内楽のコンサートを聴いた。ホルン・ピアノ・ヴァイオリンのトリオ。このメンバーはラハティ響のメンバーとエキストラで良く顔を見る若手達。我々のクワルテットのはじめの演奏の場でもあったアハティアランセウラクンタフオネという非常に長い名前の会場。残響の多い中でブラームスの豊かな音を聴きながらピアノのことに思いを馳せる。
日本は世界に誇るピアノ生産国でもあるため、その台数、環境、普及率など非常に恵まれている。何よりグランドピアノの普及率が凄い。正直ヨーロッパのピアノを学ぶ若手には(若手でなくても)高嶺の花である。私にとってもそうだった。現在所有のものは年代ものの中古グランドピアノで大学生になってから手に入れた。それまではアップライトピアノ。ピアノの習い始めはおもちゃのピアノであった。途中オルガンを経由して、アップライトピアノは小学2年生頃我が家にきたと思う。
シベリウスホールにはソリストが本番で使用するピアノは1台のみ。オーケストラの中でピアノを使う場合も同じものを使う。ステージ上での扱いはあまり丁寧とはいえない。移動もわずかの段差があろうとそのまま転がしていく。時々「ゴトン」という音が聞えるとこちらがひやっとする。調律もあいにくあまり頻繁にやっている状態ではない。一度ピアノを運ぶ道具に関してヴァンスカ氏とも話したことがあるが、やはり経済的にそのような道具を入れるゆとりも、又ピアノを複数そろえることも無理であるという話であった。日本はやはり恵まれている国家だと改めて思う。どの公共ホールに行っても立派なピアノが確保してある。複数そろえてあるところも多々ある。メンテナンスに関しても細かく気を配っている。とても感謝すべきことだと思う。
ピアノのレッスンは4歳からはじめた。近所にお住まいだったN響団員の奥様がはじめの先生。札幌に越して師事したのが今は亡き石田淳先生。奥様はお元気で先日の札響公演にもお嬢様、お孫さん共々いらしてくださった。嬉しい再会であった。バッハ、ベートーヴェンがお好きで丁寧なレッスンノートを書いてくださる先生だった。あの豊かな時間は忘れない。
東京に戻ってから大学入学まではずっと同じ先生。関西出身の女性の先生だが、初めて小学校高学年でお目にかかった時は、関西弁が恐ろしく聞えてかなり緊張していたのを覚えている。今もお元気で合唱活動や英語の勉強、そして絵を描く事に精力的に活動されている。8年間とても自由に広範囲の音楽を学ばせていただいた。私が中学で吹奏楽を、高校でオーケストラ活動をはじめたのを見て、ピアノに集中していないと怒られたことは一度もない。興味の方向を汲んでレッスンの選曲などもしてくださったと今になって思う。
小学校6年生の時に 公開レッスンで中村紘子女史の教えを受けた経験は忘れない。いわゆるピアニストとしての基礎を確立するというレッスンで育っていない私は、かなりの部分疎かであったと思う。テクニックもお粗末だったかもしれない。ただやたらと指が早くまわる子供だった。そして譜読みが早い。この2つだけでずっとレッスン曲をこなしてきたわけだから、中村紘子女史の厳しさに唖然とするはずである。弾きとばしてきたピアノの曲に様々な側面で発見があるものだということを気づかされたのはこのときだった。
どちらかというと、ピアノソロ作品よりも協奏曲に興味を持っていた子供時代。札幌では手が届かないのにチャイコフスキーの協奏曲第一番の楽譜を小学校2年生で入手。価格は300円。なんとか弾けるところだけを読み、後はオーケストラパートを弾いて雰囲気に酔う。これはグリゴリーソコロフ氏の影響である。彼のように弾きたいと切実に思っていた。協奏曲を弾く時に後ろではレコードが鳴っていた。家族は迷惑だったと思うが 自分の中ではコンサートホールのつもりである。
東京にきて中学1年の時 発表会でベートーヴェンの協奏曲第一番を弾かせていただいた。オーケストラパート担当は年上のお姉さん。こんなに面白い体験はなかった。中村紘子女史レッスンで完全にノックアウトの自分だったが少し元気が戻った。
高校生になり、学校生活が授業の予習と(ほとんど徹夜になるほど課題が多かった)二つのクラブ活動に忙殺状態となると ピアノのレッスンの頻度は減っていった。音大に進学するつもりは高校3年生の半ばまで全くなかったため、のんびりしていたわけである。
オーケストラ活動の中でも諸先輩方の伴奏を頼まれどんどんレパートリーは増える。文化祭ではフランクのヴァイオリンソナタの伴奏なども務めた。そして「皇帝」である。
同級生でやはり音楽を志しているヴィオラ奏者がいて、彼女は作曲も勉強しピアノも上手だった。このコンビでベートーヴェンの協奏曲第5番を文化祭で披露となった。私がソロパート。1楽章だけの演奏だったが、充実の時間だった。恐ろしくて当時の録音はとても聞けないが・・・・。
高校時代もう一つピアノにまつわる思い出は「プログレッシブロック」である。これは又の機会に書くとしよう。
2003年3月16日