変拍子 その2

たとえば、ストラヴィンスキー「春の祭典」、よく指揮者コンクールの課題にもなる作品である。変拍子といえば、という代名詞にもなる作品。しかしこの変拍子は難しくない。忙しく変化をする拍子群も、基本の音価が等しいか又は割り切れて音楽的に自然な流れに結局はたどり着くというところで、慣れれば大丈夫!という種類である。もちろん音楽的にはそれ以上に深いものがある。そちらのほうが重要。この作品は昔指揮科で勉強していたとき、室内楽のレッスンで仲間の指揮者と2台ピアノ演奏でのレッスンを受講した。自分で演奏をすると尚わかり易い作品である。某学生オーケストラは演奏旅行で必ず取上げていたという歴史があるようで、「暗譜で弾けます!」と豪語する。これも慣れということだと思う。

 今まで出会った作品で文句無しに難しい変拍子と感じたのは、カレヴィ アホのオペラ作品。彼はフィンランドの作曲家。1947年生まれで、ラハティ響のレジデンスコンポーザー。リズムの基本単位が小節ごとに変る。付点16分音符や付点8分音符などもその単位となったりする。テンポもめまぐるしく変る。そしてそれをオスモ ヴァンスカ氏は独特の振り分けで指揮をする。小節線無視は当たり前の解釈であった。研修中初めにアシストしていたオペラ「我等皆水に沈む前に」は正直初めてスコアを見たときにこれは演奏可能なのか!と思った。オーケストラリハーサル時の現場の混沌たるもの、凄まじいものがあった。又キャストには子供もいた。一体彼等はこれをどう覚えて演技をするまでに持っていくのだろうと思った。ところがである!

 数日のオーケストラリハーサルの後、キャストが参加するオケあわせに入った。こちらも慣れたということがあったにせよ、言葉が入ると格段にリズムの認識が易しくなった。子供達も日常会話そのままのリズムで歌っていた。つまりはフィンランド語という特異性。そしてこの言葉の日本語との発音上の類似点が実にその後難解な変拍子楽譜解読に助けとなった。

 オペラを手がけるときに、すべての言葉を調べる事、テキストとして認識すること、それを音符と組み合わせたときに何を作曲者は考えていたかを見抜くことは必ず行う作業である。逆に言うと、訳詞上演の際に原語の音楽的ドラマを言葉のレベルでも推し量って訳詞と演出を行わなければ、ただの振り付けオペラになってしまう。実際そのような訳詞と原語のポイントがずれている作品も存在する。新作の訳詞や新訳をつけるときに立ち会うといつも悩みの種である。それはさておき・・・・・

 上記の作業をフィンランド語の作品でもやってみるとこれは特別な変拍子ではないということがわかる。私にとってはまるで邦人作品のオペラなのである。母音と子音のバランスやアクセントなどがとても日本語と似ているフィンランド語。音として聞くと邦人作品オペラに聞える。そのことは、2回目のアシスト、夏のサヴォンリンナ音楽祭の時に特に感じた。このときはピアノリハーサルの稽古を担当したため、直接タクトを持ち歌手と稽古をした。この折の作品「時と夢―ヘルマン レヒベルガー、オッリ コルテカンガス、 カレヴィ アホ共作」も忙しいスコアで、特にやはりカレヴィ アホのものは言葉を覚えないと指揮はできない作品だった。言葉から生まれるリズム、その言語に特徴があるため数字で表現するスコアは複雑になっていたわけである。そのポイントが見えてくると自然に手は動く。大まかな言い方をすると、これが変拍子指揮のコツだと思う。

2003年1月23日
 

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