二休み ~駅弁によせて~

訳のわからない造語はいけない・・といいつつなかなか本題を進行できない。少しずつ盛り込んでいるのだが きっと一生かかる命題かもしれない。音楽と言葉―

 今日、都内の駅で各地の駅弁を売っていた。威勢の良い声が掛かって それだけで元気がでる。駅弁は大好きだ。北に向けての仕事が多い時期はその種類の多さに驚いていた。北陸、東北地方の駅弁の豊富なこと。年齢とともに海の幸への志向が強まっていることもあり、好みのものが多くて嬉しい。ミニ日本酒セットなど付いていると嬉しかったりして・・・・。

 駅弁は土地の特産品がたくさん出ていて味の特徴が見られるものが喜ばれる。音楽でもオーケストラでもそうであるはずなのだが なぜかそうならない傾向がしばらく続いていた。ここへ来てようやくそれぞれに特徴のある企画、音作りが行われるようになったと感じる。地方という言葉は好きではないが それぞれの土地に根付いた特徴ある活動を活性化させることが何より大事だと思っている。地方オーケストラが一つのホールに順に登場する企画も回を重ねている。もっともっと独自性ということにこだわってもよいかもしれないと感じる。

 インターナショナルなカラーで、なんでも上手で機能性に優れたオーケストラが世界に乱立して 乱暴な言い方をすれば、「どれでも良いや!」と言いたくなる時期もあった。もちろんその流れとは一線を画す地域も存在する。ロシアがそうであろう、そして北欧も音の独自性を維持していた地域だと思う。多分に言語の影響があると私は思う。文化、風土を支える人々が話す言葉の特徴、これはとても大事な要素だ。生き残り作戦というわけではないが、日本も含めて世界のオーケストラという大きな楽器が本来音楽があるべき姿、―血の通った人間によって造られ、味も香りもプンプンしているような新鮮な―美味しい演奏をいつも届ける努力を必死にはじめていると感じる。

 もちろん聴衆として様々な演奏の場にも参加する私としては、そのような取り組みに対して偏差値的に聴くのではなく 味わう事、楽しむ事の感性のアンテナをこちらも高く張る努力をしたいと思っている。何のために音楽家が存在するか―音楽という宇宙の芸術を多くの人と享受するための仲介者―その存在は、音楽を目に見える形で残せる作曲家、それを音という言葉を使って万人に届けられる演奏家、としてある。その翻訳の仕方も使う言語も多くの種類があって当然。オールマイティで世界の尺度が一つである必要はないと思う。

 目に見える生産的な活動ではないかもしれないが、人間であることの一つの証―魂―を呼び覚まし 他の生命に対してできうる事の責任を果たす叡智を与えられた生物として 生きる鼓動を感じる心を育てるためにも 芸術活動全般への投資を怠ってはいけないと思う。この心が絶対に今の閉塞的な世の中の動きを変え、人々が活力を持って生きる場を作り、愛情を持って人類全体の危機を乗り越える努力に向かう原動力になると思う。言葉の違い、文化の違い、音楽の違い、でもどれもそれぞれに異文化圏の魂を揺さぶることの凄さ。

 どうか我々が生きる地域の生活を預かる自治体関係者の皆様。目に見えにくいこの活動への理解と支援を長期的展望を持って考えてください。皆さんの地域の美味しい駅弁と同じように 大きな声で宣伝できる芸術活動を支えてください。大きく育った魂は、きっとその土地を豊かにします!駅弁万歳!
 

                      2002年12月22日
 

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