アンサンブルフラン第33回定期演奏会によせて 新田ユリ
(バルトーク音楽論集・岩城肇訳より)
ラウタヴァーラがバルトークという人にリンクさせた音楽の言葉は何であったか、お客様ご自身のお耳でお探し頂けると嬉しいのですが、フィンランドの作曲家にとってハンガリーという土地はそれほど遠く感じてはいなかったと思います。ハンガリー語とフィンランド語は言語学的には親戚です。(フィン・ウゴル語派)この言葉の仲間のうち6割がハンガリー語、2割がフィンランド語を話しています。言葉と音楽が密接な関係というポイントは度々書かせていただいていますが、上記の書物でもバルトークが熱心にその点を解説しています。そして現代の音楽語法の中では民族それぞれが持つ言語に基づく歌の節を書きとることに限界があると言っています。定型の記譜の外に実は音楽の豊かさがあるという視点です。スウェーデン語を話していたラーションは放送局勤めの作曲家であった時期もあり、多彩多様なスタイルで作曲できた人です。そこには軽妙なエッセイ風の音の言葉が並びます。スウェーデン語は同じ北欧でもフィンランド語とは異なる系列。ノルド語のグループです。
米国のバーバーが作曲した、テキストを持たないアダージォが後年編曲されてAgnusDeiなる合唱曲になっています。「葬送曲ではない」と、追悼場面で度々演奏されるアダージォに対してバーバーはコメントを残していたようですが、大本の純器楽曲である弦楽四重奏第2楽章という場所にあった時から、音の背景には誰もが読み取れる詞が隠されていたのでしょう。
吉松隆作曲のこの作品の演奏はフランの皆さんと2度目になります。今回は鳥の視線の先にたどり着けるでしょうか。そこにはおそらくウラル・アルタイ語の言語は存在せず、無意識の空間のみが広がる世界。世界共通言語の世界。
そしてバルトーク。20年ほど前、このディヴェルティメントが指揮者コンクールの課題曲となり、若き自分は細部にわたり分析を試みた記憶とその痕跡がスコアに残っています。数学が予防注射より苦手な自分にとって、「黄金分割」「フィボナッチ数列」なるものが必要になるアナリーゼは歯医者の椅子に座るほど辛いものでしたが「作曲は自然に規範を仰ぐものだ」とバルトークが語っている記述を見つけ「そうだ!ひまわりだ、松かさだ!」と・・・途端にその隣り合ったり離れたりする音程やリズムの音符が命あるものとしてかわいらしく見えたものでした。
バルトークは自然界に存在する法則からある種の「音楽美の数式」を得ています。自然の整列に美を見つけた視点と整列が潜むランダムな姿に命を与えたシベリウスとの違いを度々考えます。フィンランドとハンガリーの言語的な遠いつながりは、両国の民俗音楽のリズムと節に類似を見つけます。数式の連続に見えていた「ディヴェルティメント」の中に非常に豊かな歌と魂の叫びなる和声の響きを感じ、今回の演奏は取り組んでいます。
現代の21世紀に於いてその時代を見てみると、自然な潮流だったのだと思います。人間と音楽という大きな歴史を、一度人間から離れてみてみたかった時代があったのだと思います。政治的な話はさておいて、人間何かしら属しているところがあるはずです。人種、民族からは離れられません。そこに言語があり音楽があれば、その響きに耳を閉ざすことは不可能でしょう。
五カ国の異なる言語を話す作曲家が本日は並びます。お客様にも音楽の言葉が届くでしょうか・・・。(了)