ひこね第九オーケストラ2014 プログラムコラム

<北欧人とは>

どこか高潔な気配と趣味の良いバカンスを思わせるラーションの「抒情的幻想曲」、フィヨルドの代名詞ともなっているノルウェーの雄大で荒々しい地形と人の優しさが混在するグリーグの「ピアノ協奏曲」、そしてこれからヴァイキング船で出帆か!と冒険の心を擽られるニルセンの「交響曲第4番」。

それぞれの第一印象は、そのまま作曲者の祖国の一面を表現している今日のプログラム。

 

北欧は5つの国。スカンジナヴィア3国と言われるデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、そして海を隔てたアイスランド、ロシアと接するフィンランド。この5つの国はたどった歴史も、言語も文化も人種も異なる。アジアという呼び方で一緒に称されると、国ごとの差異を強く意識する我々と同様に、北欧人も5つの国の違いはそれぞれに語り、言い分がある。商人の国デンマーク、漁業と北海油田のノルウェー、5か国の兄貴分のような立場の工業とデザインのスウェーデン、森の民と言われミステリアスなムーミンの国フィンランド、火山に生き、火山に悩まされる知的小国アイスランド。現代の5か国の短い紹介分はこのようになるだろうか・・・・。

 

本日ホールに響く作品のふるさとは、スカンジナヴィアの3つの国。いずれも王国。

人口の多い順番では、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー。

国土の広さでは、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの順番に並ぶ。

この3つの国の共通項は言語。言語の分類ではデンマーク、ノルウェー、スウェーデンは「ノルド語」いわゆる北ゲルマンの言葉として、お互いに親戚関係の言語になっている。そのため、3つのうちのどれか一つを習得すれば、ほかの2つの国でもおよそは通じる。デンマーク語のつもりで話しても、「ノルウェー語をよく話せるね」と言われてショックを受けた人を知っている。音声が似ている言語どうし、表記が似ている言語どうし、とあくまで親戚関係の言語という距離はある。大昔、ヴァイキング時代に入る以前は、ルーン文字「ノルド祖語(共通ノルド語)」というものがあり、ヴァイキング時代に入り、それぞれの言語の特徴が次第に明らかになってきた歴史を持っている。

 

ところで、ヴァイキング・・・この言葉は、当事者であるこの古代スカンジナヴィアの人々は使っておらず、その襲撃を受けた国々もヴァイキングとは呼んでいなかった。単に、それぞれの国において、「北から来た男たち」と呼んでいたようだ。後世の歴史家たちは、北からやってきて海路略奪の遠征を行い、後に自国に戻り定住し農業なども営む行いがあったこと・その人々をvikingと表していたとのこと、

語源も現在に至って不明なのだそうだ。でも、その行いにより格段に北の地に多くの文化、文明、物品が運び込まれ、厳しい自然を宿命とするスカンジナヴィアに住む人々は歴史の中に大きく形をかえて登場してゆくことになる。

 

 本日の3名の作曲家、ラーション(19081986)、グリーグ(18431907)、ニルセン(18651931)。

スウェーデン、ノルウェー、デンマークという3名の祖国には私も足を運んでいる。と言ってもわずか

12回というもの、14年通い続けているフィンランドとは体験の深さが違う。それでも、北欧人が語る、「違い」については、初めの訪問で実感した。それだけ個性が明確だった。

 

 

2000年にフィンランド・ラハティで研修を始める5年前に、このスカンジナヴィア3国を訪問している。初春と秋の初めという二つの季節。もっとも深く心に残ったのは、グリーグが愛妻ニーナと眠るノルウェー・ベルゲン。空路ベルゲンに入った時は、フィヨルドの地形が織りなす複雑な地形に、おとぎ話のような家並みが作り上げる光のデコレーションに目を奪われた。山腹がクリスマスツリーのようであり、近づくとそこには色とりどりの壁を持つかわいらしい木造の家が並んでいた。滞在先の部屋の色調もクリスマスカラーであり、またノルウェーの国旗に含まれる深い藍色がアクセントとして使われていた。あの暖かさは忘れない。そして、グリーグの終の棲家であり、夫妻で眠る岩壁にあるお墓があるトロールハウエンを訪ねた時は、このノルウェーで勉強したいと強く思ったものだった。まだ入り江に氷が残る季節、グリーグの作曲木屋の前は凍りついた白い入り江、白い海がそこに広がっていた。心得の悪い自分は、その真っ白なキャンパスに、うっかり足跡をつけてしまった。

 ピアノ協奏曲を手掛けた頃のグリーグは、この場所にはまだたどり着いていない。ノルウェーの首都、クリチャニアに住居を構えていた。この郊外の美しい土地、トロールハウエンには1885年に引っ越した。夏の住まいとして利用し、厳しい冬は夫婦で旅をするという生活を1907年に亡くなるまで続けていた。

 

従妹であったニーナと1867年に結婚してから二人の距離はいろいろな季節があったものの、素晴らしい歌手として夫の作る歌曲の一番の表現者でもあったニーナとの暖かな日々は、グリーグという人を語るのに一番ふさわしい。しかし一方、非常に毒舌家でもあったグリーグ。夢のような美しい旋律を書き記す一方、政治への意識も高かった。有名な話が二つある。1864年頃、デンマーク王妃が若き作曲家グリーグを招待した。しかしグリーグは共和主義者であるため、それを断った。この折は知人の説得で最終的に出席したが、王室や貴族、特権階級へグリーグの態度は終生一貫していたそうだ。

もう一つも招待にまつわる話。1890年代に起こった「ドレフュス事件」に関してのもの。1899年にパリでの演奏会に出演依頼が入った。しかしグリーグは「・・・・しかし、まことに申し訳ありませんが、ドレフュス事件の結果を考慮すると、私はフランスに行くことができないとお伝えせねばなりません・・・・」という手紙を送り、そしてそれはヨーロッパの有力紙に掲載された。これによりグリーグ自身にも脅迫状が届く日が訪れ、グリーグの作品を演奏するピアニストにも同様なことが起ったようだ。   

 

そんな非常に強い魂を持つグリーグが生涯大事にしていた言葉、

「人はまず人間であらねばならぬ。あらゆる真の芸術は人間的なものから生まれる」。

これが遺された背景には、なんと日露戦争がある。ロシア側の招待を、この戦争で苦しみ、命を落としている人がいる国に、その専制政治の行われている場所に芸術を奏で、語るためには行けないという気持ちで送った手紙にその言葉が遺されている。言葉の背景にあることを知らずにグリーグのメッセージを読むと、温厚で穏やかで慈愛に満ちた人柄・・・ということが浮かび上がる。実際はそれを支える燃える火のような激しい人間愛に満ちた人物であった。

ちなみに日本グリーグ協会はこの言葉を会の大切な柱としている。

 

 ニルセンの生まれたデンマークは、今は国土がスカンジナヴィア3国の中で最も小さなものになっているが、18世紀まではノルウェーも支配下におき、大きな力を持っていた。少し関係を説明すると、

19世紀はじめにノルウェーは、デンマーク統治からスウェーデンの支配下に移され、そのことをきっかけに独立の気運が高まっていた。スウェーデンと同じ王を持ち、しかし独自の政治を行う体制を許されていた環境は、少しずつノルウェー人の自立心を育てた。今回は登場しないが、シベリウスが生きたフィンランドが、ロシア支配の自治領であったことと様子が似ている。ノルウェーとしての本当の独立は1905年、グリーグの晩年に成立、64年のグリーグの人生はまさに、独立にむけて巧みな政治的駆け引きも行いながら民族の魂を高揚させたノルウェーそのものの歩みだった。

 

 

ニルセンが生まれた年1865年は、シベリウスもフィンランドに生まれている。当時のデンマークは

ノルウェーを手放したこともあり、厳しい状況だった。ニルセンはフューン島の田舎に生まれている。

私自身のデンマーク体験は、首都のコペンハーゲンのみ。王立劇場でバレエとオペラを見て、通常の観光コースを歩き(人魚姫にも会い)、ロイヤルコペンハーゲンの本店の大きなポットで頂くお茶に驚くという、まことにステレオタイプの現在のデンマークの姿しか知らない。一番の印象は、どこまで行っても平らであったこと。見晴らしがよく、風通しがよく、常に強風にさらされていた記憶がある。アンデルセンの国である。チボリ公園の国である。どこか楽しげで、朗らかで、色彩豊かなイメージがそれだけで浮かんでくる。しかし実際は、アンデルセンは苦労の人であったし、チボリ公園も今時のはやりのテーマパークに比較すると、少々さみしい姿である。それでもこのチボリ公園は音楽家にとって、大事な演奏会が行われた場所でもあった。

 

ニルセンが育った環境は、相当に厳しかった。カール・ニルセンは1865年の69日に産み落とされた。住居であった農家のコテージの外である。それは偶然ながら父親が不在であった時に陣痛を迎えてしまったことによる。留守をしていたカールの幼い兄弟たちから離れ外に飛び出しカールを生んだ。

苦しい生活ながら7番目の子供であったカールは両親の愛情をうけて育った。父は楽師としても知られ、楽器を操り度々家を留守にして求められる場所に出かけてゆく日々だった。母は留守を預かり、薄いパンを前に細く美しい声で歌いながら食事の支度をしていた姿をカール少年の記憶にとどめられている。

父親は抜群のリズム感を誇っていたらしい、そして母は美しい声と歌を持っていた。この二つはニルセンの管弦楽作品を見るとその要素がしっかりと読み取れる。演奏者にとっては至難の業となる、複雑なリズム、そしてヴァイオリンを苦しめるハイポジションが続く旋律・・・。両親の遺伝子ともいえる。

 

音楽的なセンスは持っていたカール少年、軍楽隊でコルネットとアルトトロンボーンを演奏する仕事を得て、それは家計を助けていた。コルネットのハイトーンを1分も持続できるという技を持っていたようで、それにより昇進もしている。北欧音楽の父、ニルス・ゲーゼにも認められ、コペンハーゲンに新たに創立された王立音楽院で作曲とヴァイオリンを学んだ。ヴァイオリンの腕も確かなものだったようで、卒業後エキストラとしてオーケストラや弦楽四重奏の奏者として仕事もしている。作品1とつけられている弦楽の「組曲」が初演時から人気を博し、若い作曲家のスタートは順風満帆にも見えていた。非常にエネルギッシュで社交的なニルセンは、好意を持って迎えられることも多かった。写真を見ても、同い年のシベリウスがどこか影を感じる姿と異なり、陽気な雰囲気を感じる。 

しかし、これまでニルセンの生涯について、あまり解説されている文章は出てきていなかった。作品解説、作品分析などの書籍は英文でもいくつか存在していたが、こと生涯を網羅して書かれているものは非常に少ない作曲家だった。自伝の「わが幼年時代」には文字通りフューン島での貧しいながら暖かな日々についてつづられている。

情報の少なさには明確な理由があった。ニルセンの娘、イルメリンが1983年に出版されたニルセン研究者によるニルセンの「日記と書簡集」を、この先25年この内容のままとどめておくようにと指示をだしていた。つまり、この1983年のものは実際の内容から編集されて、ある部分を隠された形で書かれたもの。親族からの「禁止令」により、最近までニルセンの生涯の本当の姿は文字通り秘密とされていた。なぜか・・・。今となってはその理由は明白になっているが、ちょうど本日演奏される交響曲第4番が作曲されたころ、1914年から16年にかけては、ニルセン夫妻は危機を抱えていた。ニルセン夫人は著名な彫刻家であり、自分のアトリエを持ち、度々家を空け自分の創作活動にも力を入れていた。当時ニルセンは海外に移転したがっていたことを近くにいたものは知っていた。法的な別居を申請したのは夫人からであり、そこには自分の創作のためという表向きの理由ではなく、夫の度重なる不貞という不名誉な事実があった。詳細を記すとこのコラムも「週刊○○」のごとく様子が変わってしまうので、この辺でお許し願いたいが、とにかくこの件は当時の人にはよく知られていたことだったようだ。度を越したという表現も、最近の新しい伝記には登場する。

そのような身辺の激しい動きがあった頃に書かれていた、「消しがたきもの(不滅)」という交響曲。The Inextinguishableというタイトルへの想いは、ニルセン自身「音楽だけが人生の基本的な本来の望みや決意を表現できるもの・・・人生は抑えがたく、消しがたい想いにあふれる・・・音楽は人生であり、消しがたいものだ」と綴っている。

当時のデンマークは第一次世界大戦勃発で中立を表明したもののドイツの圧力は強まっていた。作品の中にも、そのドイツの響きはあちらこちらに顔を出す。そして止まらずに演奏される4楽章形式の中にあふれる喜怒哀楽の激しさと響きの温度差は特徴的。ニルセンのウィットに富んだ陽気な側面で描かれている手法が非常にリアリティを感じさせる。デンマーク人ニルセンの魂は、グリーグとは異なる熱さを持って作品にも、現実にもほとばしっている。

 

最後に、近代の作曲家ラーション。祖国スウェーデンは文字通りもっとも力を持つ北欧一大きな国。しかし、不思議とこのクラシック音楽の世界には作曲者の名前があまり出てこない。バロックの巨匠、ブクステフーデは南スウェーデンヘルシングボリの生まれ。ベールヴァルド(17961868)ステーンハンマル(18711927)と続き、美しい旋律で知られるアルヴェーン(1872-1960)などが最近スウェーデンの作曲家として名前を知られるようになってきたが、実際に演奏される回数は、このラーションが最も多いかもしれない。ラーションはスウェーデン放送局に所属して放送用に実用的な作品を多く残している。そして12の楽器のためのコンチェルティーノは楽器の学習者からも知られている作品。いずれの作品も節度があり、激情的な表現には走らず中庸、そして限りなく美しい旋律にあふれている。それは、貴族としての役割意識にも似た、特殊な精神のバランスがそこに感じ取れると自分は思っている。一方「偽装の神」というラジオドラマのための音楽を1940年に書き始めたが、中立を守っていたスウェーデンから、ナチスドイツに支配された隣国デンマークとノルウェーに対して深い優しさと人道的な気持ちがその作品のテクストを音として表現されている。

 

北欧人としてまとめられるのは当人には不服かもしれないが、その差異を感じながらも共通項を思わずにはいられない。北欧の音楽に関わって20年余り、そしてフィンランドと深くかかわり14年目の今、北欧人から学びたいことは増え続けている。合理的で知的な判断力、独立心自立心の強さと社会に対しての役割意識の強さ、義務と責任のバランス。それらは厳しい自然環境の中を生き抜いてきた知恵とともに、中欧やロシアという大きな隣国たちと距離を持って渡り合ってきた中、培った生きる知恵とバランス感覚によるものかと思う。その距離感は中欧の伝統的な音楽から、少しだけ自由でいられるという大きな恩恵を含んでいる。その距離感が生む隙間が、独創的な音楽の語法と響きをもたらし、裏付けする自国の文化と風土を、心地よい隙間から見せているような 決して押しつけがましくはないアピールを感じさせてくれる。

この距離感というものを、日本も音楽の世界においてもっと学んでもよいのではないか・・・20年前、北欧音楽に舵をきった自分の一つの大きな理由でもある。

 

北欧の響き、お楽しみいただけますように(了)

 

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