アイノラ交響楽団第18回定期演奏会コラム原稿 新田ユリ
「Religioso~祈る気持ちで・・・」
この原稿を客席で読んでいただいていることを祈る想いで書いている。COVID-19という世界共通の新たな「敵」の存在に大きく揺れたこの1年、犠牲になった方々の御霊に祈りをささげるとともに、医療従事者の皆さんへの感謝を忘れぬ日々が続いている。
1年前の公演は今年へ延期となった。曲目を変更せずに開催することとなったため、このコラムも昨年お蔵入りした原稿を基にして改めて書いている。中止・延期など微塵も考えずに執筆していた時期の言葉が、大変に遠い昔に感じている。
宗教論争をするわけではないが、宗教とはなんぞやと考えさせられる現実的な問題が前世紀から引き続いて世界に存在している。対立や相互の無理解による争いはそれが生まれた時代から存在しているが、現在は誰もが同じタイミングで世界に存在するこの争いを知り、目の当たりにし、巻き込まれ、体感している。そして現代はすべての宗教を俯瞰して、人類が宗教によって成し遂げたこと、失ったこと、持つ意味などほぼ等しく知る機会を得ていて、様々な芸術活動、表現者はそれぞれの方法でそこへの向き合い方を提示しているように感じている。その行為から本来の個々の宗教的なものとは違う次元でのReligiosoが生まれつつあるのではないかとも思うこの頃。
さて今年のテーマ「Religioso」イタリア語の副詞として、宗教的に、信心深く、献身的に、神妙に。辞書にはそのように載っている。無宗教の人間にとっては、宗教的にという表情がどのようなものなのか本当のところは理解できないのかもしれない。しかし信心深く、献身的に、神妙にと示されると、その心持は大いに共感できる。私自身は特定の宗教は持たず、八百万の神々を感じて日々過ごしているという人間である。万物に神宿るという意識は、自己を取り巻く様々な現象や状況また人間関係においても、時には異種の生き物に対しても、何かしら畏敬の念を持っているということでもある。自分ではないものとの距離感の中に個人的にはReligiosoを持っていると意識している。唐突ながら、この距離感がシベリウスやフィンランドの人々にも感じる。カレヴァラの世界はこれに繋がる。
レの音を基音とする調性、ニ長調、ニ短調、ドリア調については、これまで交響曲第2番、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第6番の演奏においてこのコラムの場や拙著でも触れてきた。一般的に「ニ長調」は祝祭の調、Deus(神)に繋がる調、「ニ短調」は荘厳で崇高な調、哀しみのドラマの調と性格づけられている。原始、古代の時代から発せられていた「音」が次第に分析され体系づけられ、それまであいまいな「心地よさ」「不快な音」という感覚の判断が協和音、不協和音、長調、短調という誰もが共有できるものになるまでに人類の歴史の1000年以上かかっている。調性の概念は西洋音楽の発展とともにあるので、その中のほんの短い間の時間で教会音楽の発展とともに確立された。そして本日の二つの交響曲に共通の「レ」の音、「d」音を主音とする調性の特性は先に記したとおり。調性の性格付けは音楽の専門書各所で書かれているのでぜひ一度お手に取っていただきたい。参考までに一冊ご紹介したい。とても読みやすく楽しく書かれているのが作曲家吉松隆氏の「調性で読み解くクラシック」。ご存知の通り吉松氏はシベリウスを敬愛されている。その作品への影響は大きく、私も昨年演奏した氏の「交響曲第6番」でそのことを体験している。吉松氏の作品はこれまで2曲だけ演奏の機会があった。いずれの作品にも静けさの中に無宗教のReligiosoを感じた。
シベリウスと宗教の話は研究者の資料の中で折々「あまり宗教的な人間ではない」という表現で残されている。敬虔なクリスチャンとしての活動の様子はあまりみられないということか。しかし作品の中に、献身的な姿、祈り、神妙な魂というものが随所に感じられる。今回の作品の背景は選曲委員によるコンセプトのメッセージ、また楽曲解説に並ぶので割愛させていただくが、後半の3曲について少し触れたい。
チェロの独奏と管弦楽で今回お届けする「2つの厳粛なメロディ」。1914年12月1日に完成した1曲目、1915年の夏に書き上げられた2曲目、いずれも交響曲第5番の作曲途中のものである。シベリウスが明確に宗教的な、教会的なタイトルを用いることは珍しい。1曲目「Laetare anima mea」においては出版の際に伴奏にオルガン、あるいはハープを用いることが望ましいとシベリウスのコメントがある。実際に初めにオーケストレーションされたときにハープは使用されているが、のちのソロヴァイオリンとの組み合わせはピアノで書かれた。2曲目の「Devotion」もヴァイオリンのために書かれたが、こちらはピアノ伴奏譜が先に完成している。不安に満ちた作品の性格がタイトルと相まってこの時期のシベリウスの心情を思わせる。12月8日に迫る自らの50歳誕生日祝賀会に向けての交響曲第5番に向き合っていた時期である。
そしてアイノラ響らしいプログラミングと言えるが、交響曲第6番の後に「行列聖歌」を取り上げる。この作品113の「フリーメイソンのための音楽」は全部で12曲。最後はフィンランディア賛歌となっている。ただし良く知られたKoskenniemiによる歌詞ではなくWäinö Solaの歌詞である。「行列聖歌」は第6曲目。原曲はオルガンでそこから7種類の編曲が生まれている。本日は1939年のサロンオーケストラ版、つまり室内オーケストラサイズの編曲で演奏する。シベリウスとフリーメイソンの関係は1922年に始まっている。ただ、フリーメイソン的なものは交響曲第3番以降折々作品の中に見えると私は思っている。清明なハ長調はフリーメイソンにとって大切な調。大きな転機の交響曲第3番と最後の第7番がこの調性を持っている。そしてシベリウスをフリーメイソン入信に向かわせたいくつもの哀しみ、友人、支援者、弟の死、自らの飲酒癖との闘い、そのような葛藤は実は交響曲第2番作曲前後にも同じような状況があり、住まいの環境の変化とともにシベリウスの精神には後の入信に繋がる何かが宿っていたのではないかと、私は個人的に思っている。交響曲第6番もこの入信後の作品。多くの悲しみに荒ぶる魂の均衡を求めつつ、ひたすら祈りに満ちた繊細で珠玉の交響曲と考えている。近年この作品と続く第7番を休憩を挟まず一つの作品として連続して演奏するスタイルが世界的にみられる。個人的には賛同できない。音楽理論的には理にかなっており、同時期に作曲されているということからもそのように演奏されることは十分に理解できる。ただ自分には、両者の世界は大きく違うと感じている。第6番の最後は、やはりこの作品の冒頭に戻り、それはエンドレスに展開されると今は考えている。
今回の公演にあたり、私たちアイノラ響は一つの大きな哀しみを体験している。
これまで素晴らしいチラシデザインも手掛けてくださっていたヴァイオリン奏者の井上有紀子さんが2019年夏、闘病の末天国に召された。私はこの知らせを自分のフィンランド公演のさなかに受け取り、大きな衝撃を受けた。2019年4月の公演には共にステージにいらした有紀子さん。彼女の描くデザインは公演のコンセプトの深い部分を見事に表現されていた。その繊細な感性を持って天国の階段をこんなにも早く昇ってしまった。今年のプログラムコンセプトは一昨年のうちに決まっていたものであり、この曲目をこのような気持ちで演奏することになろうとは、まったく予想もしていなかった。
そして、現在の地球上の悲しみに満ちた様子を、有紀子さんはどんな想いで見つめていることだろう。
天国に届け・・・本日の響きはすべてその想いで演奏したい。(了)
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