がくふ nuotti

本日から、2010年2月に公演を持つ、日立フィルのリハーサルがはじまった。
昨年のマーラー6番「悲劇的」からもう1年以上の時間が経っている。
その間にこのオーケストラは、2つの公演、二人の指揮者とマーラーの1番も演奏し、薔薇の騎士組曲も、ベートーヴェンの3番も演奏している。何というオーケストラだ・・・・。

今回の共演は、ラーション、ブルックナー、ベートーヴェンというプログラム。
本日はイニシャルBのお二人の曲を一通り音を出してみた。
ブルックナー第4番はハース版、ベートーヴェン第4番は新ブライトコプフを選んだ。

ベートーヴェンのこの版での演奏はまだあまり多くないと思う。
びっくりする違いが2か所、明確に聞こえる。(ぜひ聴きにきてください)

この版を選んだ理由・・・・・
今回大きな変更のある2つのポイントが納得ゆくから・・・。

楽譜というものが、いかに不完全なものかというのは、この仕事を始めて散々体験していることだが、
とくに、シベリウスを自筆、旧版、新版と参照しての研究を続ける中でその想いを強くしている。
作曲者にじかに会うことができないものに関しては、資料と研究結果の参照しか答えを見つけるすべがない。
あとは、自分の直感を信じるしかないというのが正直なところ。
自分の姿勢は、「どんな楽譜であっても、必ずそこから音楽を見つけ出す」ということ。

研究者も1次資料、2次資料、その時代の諸々の事実や伝聞の記録を目の前にして、その中から推論している。作曲者が残した様々な印をどう判断するかは、目の前のことだけではなくその事実の裏側を知っていることも時には必要。初演の後には膨大な書き込みや訂正などがパート譜にも残される。その部分に残っている作曲者の言葉もかなり貴重な証言となる。
今回の新ブライトコプフはそのポイントに注目している。
もちろん、この楽譜の中にも???という点は多々ある。
その辺はオーケストラとともに徐々に解明していきたい。

楽譜はそれ自体不完全なものだ。
だからと言って、何をやってもよいということではなく、
演奏家の勝手な改竄や作品の本質から離れた演奏家のための作品にしてしまう演奏スタイルは
自分は望まない。
そういう姿勢であっても必ず音楽家の個性は自然ににじみ出る。
楽譜に忠実にということでは、演奏が画一的になりつまんない・・・・という声も巷で拾うが
それは忠実の意味が誤解されていると思う。

名作の読み方、素晴らしい戯曲の演出の仕方、いずれも大本はしっかりと一つのものが存在するけれど、
そこから素晴らしい作品であるほど、表現される空間に広がるものは様々で奥が深い。
音楽作品も同じこと。

100年も200年も300年も生き残っている作品には意味がある。
あまたの音楽家の手にかかってもなお、空間に描く言葉が残っている。
そしてその同じ姿勢で、今生まれる作品にも接していく。

明日はロシアだ・・・・・。
 

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