気の毒な耳 「放射線-東京新聞」・「紙つぶて-中日新聞」

2000年から縁あってフィンランドと行き来をしている。この国の静けさは有名だ。自室の物音がすべて隣人に聞こえてしまうのでは、という恐れ。自分の鼓動が日常これほど聞こえる驚き。春初めに、解けかかった雪を載せた木々から小鳥の声が聞こえる喜び。外界の現象が耳に心地よく飛び込んでくることを一年を通して味わっていた。そして01年10月の帰国を迎えた。

  成田空港に降り立ち都内へ戻ってきて、足がすくんだ。あまりの騒音に情報が処理しきれない。疲労感が押し寄せてきた。人ごみに出かける気力もなくなっていた。テレビの音も苦痛である。はじめの帰国から四カ月後再びフィンランドに2カ月間滞在した。雪の季節ということもあり、より深い静寂であった。内面が元気になるのを感じた。このような生活を繰り返しているうちに、騒音の恐ろしさをより深く考えるようになった。

 耳は耳栓などを使用しない限り、無尽蔵に刺激を受け続ける器官だ。意識していなくても音を感じ取り情報処理を行っている。情報過多の状態が長く続けばその器官にも良い影響はないであろう。嗅覚(きゅうかく)同様やがて慣れて麻痺(まひ)する。刺激にはより強い刺激を欲しがるものだ。騒音問題を解決できない都会では人間は間違いなく半死状態であろう。

 そうして疲労した耳と心が求める音楽とはどんなものだろう。巷(ちまた)で「癒やし」の音楽がはやっていた。その代表格に北欧の音楽がよく挙げられる。でもこれは作品にとって名誉なことではない。能動的な芸術活動を呼び覚まし生み出すためにも、音楽家は静寂の大切さをもっと叫んで良いと思う。(指揮者)

「放射線-東京新聞」・「紙つぶて-中日新聞」
2004年8月18日夕刊 掲載

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