「ずずっといって・・・」と言われてもなかなかそうはできないのが、レディと欧米のお客様。レディではない私はいつも「すずっ」と頂く。
昨年夏にフィンランド放送交響楽団という、日本でいうNHK交響楽団と同じように放送局が持つオーケストラの主席ソロトランペット奏者をお迎えした。 仲間で一緒にお蕎麦を頂いた。まずは山葵を卸すところから。演奏家は手先が器用。問題なし。そして箸でお蕎麦をつまむ。これはやや苦戦か。汁につける。そして口に運ぶ。「ささ、ずずっと…」これは無理だった。 トランペット奏者は楽器に息を吹き込むのは上手だが、食べ物を吸い上げることは未知の世界と見えた。文化の違いだ。音はしなかったが、とても鮮やかに美味しそうにお蕎麦がみるみる消えていった。 若い頃、副指揮者という肩書きでオペラの現場を飛び回り、アマチュアオーケストラを指導のために走り回りという日常を送っていた頃、活力の源は「駅のお番麦」だった。 「一流の指揮者になるなら、一流の食べ物を一流のお店で…」とおっしゃる諸先輩がたのお言葉を背に、「てやんでえ、駅蕎麦も極めれば一流よ」と肩で風を切っていた時期もあったかもしれない。ちなみに自分は東京生まれの札幌育ちだ。父は名古屋生まれ、育ちは東京、母は福島浜通り出身。ちっとも江戸っ子ではないが、忙しい身には江戸っ子の気風を羽織るのが合っていた。 プロの指揮者として活動が始まってから10年も過ぎると、仕事のペースもだいぶぷ変わってくる。目の前にあるものをじっくりと味わう時間もできてくる。 味わいに足を運ぶ時間も取れるようになってきた。ありがたいことだ。 指し示すという文字をつかうためか、指揮者は「ふんぞりかえって指図する人」と思われがちだが、そんなことができる人はおそらく「80歳を過ぎてから」の指揮者だけであろう。 自分が動かなければ話にならない。日本全国、世界各国、指揮棒と楽譜をかついで旅をする。旅といえば「お蕎麦」。出かけた先でのお蕎麦探検は欠かせない。自他共に認める麺食いで育ってきた自分。仕事の旅で楽しみなのが、麺と汁が作り上げるハーモニーとの出会い。どのお店もそこに神経を注いでいるのは間違いない。 オーケストラと指揮者の相性と同じようにそれは決して一定ではなく、気温、天気、いただく人の心持、お店の環境、周りのお客様の様子、体調等々に著しく左右される。演奏会の場合は取り上げる作品との相性もあり、実に複雑なハーモニーが生まれる。お店のほうでは同じように作っているつもりでも、それは受け手のお客の状態によってもとても変化するものだ。だから面白い。出かけていかなくては味わえない楽しさだ。 私にはまだ「この店のこの味」という語れるお蕎麦がない。まだまだ出合っていないハーモニーが多いのだ。美味しいハーモニーはすでにたくさん出合っているが、自分の決定版はもう少し足を動かしてから見つけることにしよう。一生探し続けるのかもしれないが、それも面白い。 演奏もそのように味わって下さる人が増えてほしい。グルメ番組と同様、音楽の世界もメディアやCDなどの情報が世界中から入ってくる。実際に聞いていないのに味わっている錯覚を持っている。そういう耳を満足させ、その感覚や知識を確認するためだけにコンサートホールに足を運んでいては哀しい。その場で生まれるものが本物なのだ。 グルメ番組のお蕎麦では満足できない、健康な元気な感性を持って歩き回る人が増えると、日本も元気を取り戻すのかもしれない。 今年の目標は、長年の夢「わんこ蕎麦」を頂くこと。 「ずずっ」が何回聞こえることだろう。 |
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季刊新そば123号 (2005年8月20日発行 株式会社 北白川書房) に掲載 |
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