満開の桜も、今晩から明日の雨で 桜絨毯へと様変わりすることでしょう・・・
昨年の今頃、本当に季節を感じていなかったことを先日、ふと思い出しました。
桜も咲いていたはずなのに、その姿をしっかり見られるようになったのは、八重桜のころだった・・・
そんなこともよみがえってきました。
1年前の4月3日にアイノラ響の第8回演奏会あり、その開催に向けてもメンバーから様々な意見が出て・・
そして無事に開催できた当日の空気は、まだ心身に残っています。
八重桜のころ、福島から避難してきた伯母たちを青葉の森公園にご案内したこともありました。
残念ながら南相馬市の立ち入り制限区域に住居があるので、現在も従姉の家に身を寄せています。
今日は一日ニュース報道が盛ん・・・・。
ミサイル云々だけではなく、「人間」という生き物の哀しさに言葉もなくなるような事件や事象が多い。
どうして、あんな言い訳が通用するのか・・・
どうして、あのような無残な事故が起きたのか・・・・
音楽文化に関わるものとして、現在多くの人が頭をかかえ意見を発している大阪市にまつわる問題は、
大阪市音楽団という、自分も多くのご縁を頂いている楽団を対象としているだけに、正直のところ簡単に発言することができない。
心情的にはもちろん、市長の発言や姿勢にはまったく賛成することはできない。
数字を示しての実例ができないのでいささか片手落ちだが、大阪市の楽団であるという制約を持って活動してきたことで、動きたくとも動けないという内情、求められている仕事場へ行けないという例などを聞いてきている。大阪市の持ち物として大阪市民のための音楽活動を優先させてきた楽団が、そのトップがかわり「不要になったからあとは勝手にして」なる発言をしている現状は、大変に残念で怒りを覚える。
仕事場の上司が変わることで、部下の交代、配置転換は確かによく起るものだ。ボスが「こいつは使いにくい」と思ったら、何らかの行動を起こすだろう。
しかし楽団という大きな個体は、市長との直属の上司部下の関係では収まらない役割を得ていたはずだ。
ただしかし、この問題はおそらく情緒や価値観で反論していても 何も解決できないだろうということも感じている。
なぜか・・・
相手が弁護士であり法律の専門家であるから。
つまりあの発言の裏には相当現実的な実証や世論を説得するための、道具や手段を持っていると思うからだ。
もともと違う価値観の土俵に上っているものが、それぞれの戦法でお互いにせめてもなにも動かない。
市長の真上から賛同できないことへの具体的な反論反証を落とさない限りは、まったく勝ち目のない戦なのではないかと思っている。
大阪市長が持ち出す様々な現実への具体例、具体策というものは正直のところわかりやすい。
そのわかりやすさへの迎合という図は、ちょっと考えてみると近年の日本の社会全体が作り上げてきた社会スタイルそのものだと思う。どんな分野でもその問題が現在噴出している。音楽、芸術文化だけではない。
考えない、それでも社会に生きることができる・・・そこには誰かの考えの上に乗せられているかもしれない危うさがある・・・・そんなわかりやすい状態をできるだけ気が付かないようにして育つことができる、そんなしくみを長きにわたり継続させてしまったこと・・・・、教育の現場にいると そこへの問題意識とある種の悔いを感じることが多い。
音楽の大切さ、文化は人類の糧であり、人間たることの原点であるということを多くの人が語り、
私自身も痛切に想い叫びたいのだが、おそらく大阪市長にはまったく通じない。
問題の根源は財源がないこと、これからも不足することが明確であること。(それは日本全体も同じだ)
だから、大阪市だけの問題ではなくいずれ日本全国同様の動きが現れるかもしれない。
その時に、為政者の資質、価値観だけに頼ってすがってゆくだけでよいのか・・・
仮に今回件の市長が何らかの譲歩策を出したとする・・・
その策の上での芸術活動という枠を決められたら・・・・
自分の分は自分で稼げという指令の元、お金が集まることが優先されたら・・・
1億円コンクールの話が飛び出す市長だ。
価値観の土壌は、文化に携わる人々とは全く違う。
その違う、というところに何も情緒的判断も感想もない。
そんな市長に情緒で訴えても、過去例を並べても、何も伝わらない。
「お上だのみ」ではなく、本当に自分たちで方法を探す必要がある。
それは市長の描く設計図の根幹を崩すほどの策が必要だ。
それを提案できない自分に、猛烈に腹がたっている。
同時に、必ず見つけたいと思っている。
それは、日本の文化土壌の根っこにもかかわることだと思うから。
今回のことが起る以前から、あちらこちらの現場で厳しい状況は顕著になってきていた。
その中で、音楽家のあり方と次の時代の音楽家の生き方はどのようなものか・・・
漠然と考える日々が続いていた。
とにかくここ20年、30年の音楽社会とは同じではいられない。
そのことを厳しく受け止めて、人類史とともに生まれ受け継いできた音楽・文化の遺産を継続させる方法を
今の時代の我々の手で見つけ、実現させなくてはいけない。
少々堅物の文章になってしまったが・・・・ずっと書かないでいたことをやっと書いた。
市音の皆さんの置かれている立場、それを思うとじっとしていられない、
これは本当に大きな問題だと思っている。
立場は違えど多くの音楽家が向き合う問題を含んでいると感じている。
怒ったら負け、泣きついても負け、
冷静な実証と、実現可能な反論を展開し、展望を広く示す必要がある。
芸術に勝ち負けを入れることは何より嫌いだが、相手がその分野のプロであること、
それを軽く見てはいけない・・・・・
たかが一人のちっぽけな指揮者ですが、
それでも日々考えています。
血圧上がりますね。また。
コメント
コメント一覧 (2件)
単純な損得の話や競争の話だけを優先すると、格差社会が広がります。心が休まらない社会になります。
教育、文化、芸術は、心を豊かにすることができますが、単純な損得の話に換算できないので、難しいです。
損得に換算できないもの、目に見えないものを大事と思わない人がトップになると、一時的には上昇しますが、その後取り返しのつかないことになるのではないかと危惧しています。
もちろん、無駄は省くべきです。
無駄や浪費を何とも思わなかったとしたら、体質の改善は必要ですが。
>おおもりさま
コメントありがとうございます。本当におっしゃるとおりであります。
目に見えないもの、目に見えないことの裏側に、いや実際は裏ではなくそれを表に見てそれを支える裏側をひそかにみんなでがんばろう・・ってな按排で世の中まわってゆくと 心豊かでゆとりのある社会になると思うのであります。
無駄を省いても、残ったものの3割はまた次の段階の無駄になりますね。
別の例で、生物の怠け者割合を研究した結果がたしかその事実を突き付けていました。怠け者を排除しても、精鋭部隊のある一定の割合はまた怠け者になる・・・。すべて必要だと思います。あらゆる現象が支えあっている事実をおおらかに受け止める社会であってほしい。