仙台ニューフィルハーモニー管弦楽団第66回定期演奏会プログラムノート

F.クーラウ作曲 祝祭劇「妖精の丘」序曲 作品100

E.グリーグ作曲 ピアノ協奏曲

C.ニルセン作曲 交響曲第4番「消し難きもの」作品29

 8世紀から11世紀にわたるヴァイキング時代。彼らは精力的に新しい土地に向かった。造船技術を学び航海術を磨き、広範囲の土地に彼らの足跡を残した。現在のデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、彼らの祖先がいわゆるヴァイキングだった!と誇る人もまだまだいるようだ。因みにヴァイキングという名称は古代スカンジナヴィアの彼らが名乗っていたのではない。当時侵略されたほうの民族も、北の国から来た大柄な民俗に対してヴァイキングとは呼んでいなかった。単に「北方から来た男たち」というノルマンニという名称を付けていたそうだ。其のノルマンニたちが海を渡り交易をおこない訪問地の文化を取り込みスカンジナヴィアに戻ったという時代を経て、本日の三人の作曲家が活躍したスカンジナヴィアの時代に入る。

フレデリク・ダニエル・ルドルフ・クーラウ(1786-1832の名前はピアノ学習者にはよく知られている。

ソナチネアルバムの前半はクーラウによる愛らしい作品が並ぶ。ニーダーザクセンのユルツェンに生を受けたクーラウ。父も祖父も軍楽隊でオーボエを演奏していた。7歳のころ氷の上で転倒したクーラウはその時の傷がもとで右目を失明している。14歳でカトリック寄宿学校での勉学を終えたクーラウは非凡な音楽の才能をもってハンブルグでピアノと作曲の勉強を続けた。1804年18歳のころにはハンブルグでピアニストとしてデビューを飾っている。1810年、ナポレオン軍の侵攻を避けてデンマークのコペンハーゲンに渡ったクーラウは、自身のピアニストとしてのキャリアにより1813年デンマーク王室にまずは無給で雇われた。演奏やレッスンで稼ぎながらその地位で作曲を続け、この年に歌劇「盗賊の城」を作曲。この作品が大変な成功を収めた。市民権を得て1816年―17年には歌劇場の歌手のコーチを務め高収入を得るようになったが、作曲の仕事に専念することもありこの職を辞した。クーラウにはフルートとピアノの作品が圧倒的に多いが、歌劇、劇音楽もあわせて16曲遺している。本日お聞きいただく「妖精の丘」序曲は祝祭劇のための音楽。国王の娘マリーと後のフレデリク7世であるクリスチャン王子の結婚式のためにフレデリク国王6世の依頼によりコペンハーゲン王立劇場が制作した劇の音楽をクーラウが担当。中の音楽には多くの伝承歌が使われている。序曲にも現れる旋律を順に紹介する。

勇壮な冒頭に続く優美な旋律は劇の第4幕のバレエ音楽。物語の主人公である「アウニードの夢」という音楽。主部のアレグロに入るとアウニードの本来の名前「エリザベス」の身代わりにより歌われる「木陰は広がり、陽は伸びる」という歌。そのあとにクーラウオリジナルの狩人の合唱による「美しい夏の夜に」と、「いまやどこも陽は落ちた」が続く。そして最後に聞こえるのがデンマーク王室歌「クリスチャン王は高き帆柱の傍らに立ちて」。

ベートーヴェンを崇拝していたクーラウらしい形式が明確で無駄のない序曲は、もとの劇の人気もあって本国でもよく演奏され知られている。

 北欧の作曲家の代名詞の一人である、ノルウェーのエドヴァルド・ハーゲルプ・グリーグ(1843-1907は現在フィヨルド観光として名高いノルウェーの西岸の都市ベルゲンに生まれた。交響曲は生涯1曲のみ、歌曲とピアノ曲に抒情性あふれ愛すべき多くの作品を遺したグリーグは、自身を後世に残る作曲家とは考えていなかった。しかし同時代のチャイコフスキーはグリーグの作品について「・・・独自性とうっとりするような特異性、なんと興味をそそり新しく独創的であることか」と言葉を綴っている。グリーグの持つ独特の旋律、和声の運び、転調は祖国ノルウェーの伝統的な音楽を背景に感じさせながらもそれをそのまま転用することはあまりなかった。あくまでグリーグの霊感がもたらした創造性高いものだった。グリーグの父は商人で海産物の輸出を手掛けていた。同時にイギリス領事であり、ベルゲン音楽協会の理事長でもあった。そして母はハンブルクの音楽院で教育を受けた優れたピアニストだった。エドヴァルド・グリーグの良い教師となった。国際的なヴァイオリニストでエドヴァルド少年を音楽の道に強く送り出したオーレ・ブルは母方の親戚にあたる。恵まれた環境の中でオーレ・ブルとの出会いはエドヴァルド少年15歳のころ。「きみは芸術家になるためにライプツィヒへ行くのだ!」というオーレ・ブルの言葉はこの時のものだ。グリーグが入学した学校はメンデルスゾーンが1843年に創設したライプツィヒ音楽院。1858年に入学したグリーグは世界中から集まった同世代の若き音楽家の卵とともにゲヴァントハウスの演奏会から大きな刺激を受けた。オペラハウスではワーグナーの上演にも接し熱心に通った。1858年、当時の著名ピアニストであったクララ・シューマンが夫ローベルト・シューマンのピアノ協奏曲を演奏した公演も聞いていたグリーグ、この作品への忘れえぬ印象が本日演奏する自身のピアノ協奏曲作曲へとつながっている。刺激に満ちた留学も1859年に罹った初期の結核ゆえ1860年には静養のため帰国となった。残念ながら片肺の機能を失い、小柄なグリーグは一生涯慢性的な呼吸困難を抱えてゆくこととなった。しかしライプツィヒを去るときに音楽院の指導者達から受けた評価は非常に高いものだった。

 1869年4月3日、コペンハーゲンで初演されたグリーグのピアノ協奏曲「イ短調協奏曲」は当初から大成功を収めた作品だった。客席には当代きってのピアニスト、アントン・ルビンシュタインも来場。第1楽章の途中で思わず手を叩いたルビンシュタインに続き客席に拍手の波が広がったという逸話も残されている。残念なことにグリーグ自身はこの初演に立ち会っていない。演奏、作曲、教師と多面的な活動をしていたグリーグは当時多忙だった。様々なことに忙殺されながら仕上げたこのピアノ協奏曲は全体の構成がシューマンの協奏曲と大変に似通っていると指摘される。同じ調性、印象的な導入、ピアノソロの役割とオーケストラ伴奏のバランスにおいても近い姿を見せている。しかしグリーグにとって、ノルウェー人にとって、また初演に接した音楽家はもちろん一般の聴衆にとっても、この作品から聞こえたものはノルウェー独特の伝承音楽の気風を感じさせながら、グリーグ独特の書法が随所にみられる輝かしい作品として迎えられた。冒頭の「ラーラ・ソ♯・ミ」は典型的なグリーグモチーフ。多くの作品にみられる音型。舞曲的な躍動感のある旋律と甘美な節の応答も大きな特徴だ。ただし、現在我々が演奏する最終稿の形は1894年に完成したものだ。初演後何度も演奏される中で少しずつグリーグは改訂を行った。因みにグリーグ自身も後年ソロを受け持った記録演奏が残っている。この協奏曲の成功を足掛かりとしてこの先グリーグは、北欧を代表する作曲家として「ペール・ギュント」など誰もが知る作品を遺してゆく。「人はまず人間であらねばならぬ。あらゆる真の芸術は人間的なものから生まれる」このグリーグが語った代表的なメッセージは実は日露戦争の頃1904年10月にロシアからの招きに対して厳しい言葉で拒否した手紙の結尾の文章だ。グリーグは政治的な事にも折々意見を発し、火の玉のように激昂することもあった。熱く暖かく情に満ちた人物だった。ピアノ協奏曲作曲当時のグリーグは従妹であるニーナと結婚し長女を授かったところだった。1868年4月に生まれた長女はこのピアノ協奏曲の初演の後、5月21日に短すぎる生涯を閉じている。その悲しみに出会う直前の夫妻と唯一の娘の愛情に満ちた日々の音の言葉を本日はお聞きいただく。

 グリーグが学んだライプツィヒ音楽院の創設者メンデルスゾーンが認めたデンマークの作曲家がニルス・ゲーゼ。ゲーゼはグリーグの協奏曲初演にも立ち会っていた。当時の北欧音楽の父なる存在だった。そのゲーゼにコペンハーゲンで学び、ゲーゼによってヨーロッパに送り出されブラームスをはじめとして当時の著名な作曲家と出会うことができたのが本日の後半の作曲家、カール・ニルセン(1865-1931。ニルセンはフィンランドのジャン・シベリウスと同じ年に生まれている。ニルセンの伝記を見ると必ず出てくる写真「百面相」がある。少年ニルセンが自ら表情を様々にかえて撮影したもの。これはまさに作曲家ニルセンの後世の姿とも見える。人懐こく多くの人を惹きつける魅力を持っていたニルセンは、マリー夫人と結婚前にすでに息子が一人いた。そしてこの交響曲第4番を作曲当時は四半世紀夫婦として過ごしたマリー夫人から、別居の申請が出されていた。この人生の危機的時期1914年にニルセンが発した言葉は「音楽だけが人生をすべて表現しつくせるもの、音楽は人生そのもの、消し難きものなり」だった。原題のDet Uudslukkelige = The Inextinguishableの邦訳は「不滅」として知られてきた交響曲だが、近年「消し難き想い」という意味の方を選択することが増えてきた。「音楽は不滅なり」という意味にも捉えられるが当時のニルセンの心情を考えると、葛藤の中にあっても自分の中に変わらずあるものがクローズアップされるタイトルを今回も選択した。

ニルセンは自身で残したエッセイ「フューン島の少年時代」にも描かれているように決して裕福な家庭で育った音楽家ではなかった。子供のころから自らの楽器の腕前で生計を助けていた。大人よりもハイトーンを出せたことで合格した軍楽隊のコルネット奏者だった。後にヴァイオリンを学びコペンハーゲンの音楽院では、ヴァイオリンと作曲を学んだ。作曲の師はニルス・ゲーゼであった。習作の頃からニルセンには独自の音の世界が楽譜に現れていた。コペンハーゲンにおいてもまた留学先のドイツにおいてもその独自性は譲らなかった。ベルリンで留学の最後に提出した弦楽四重奏を自らもセカンドヴァイオリンを担当して初演した。ブラームスとの深い縁を持つ名匠ヨーゼフ・ヨアヒムがその演奏に立ち合い若き作曲家に率直な感想を伝えた。「創造性、独自性が顕著で素晴らしい」しかし作品に潜む常識破りの書法、伝統から逸脱した点を同時に指摘した。それに対して「それを直したら自分の作品ではなくなる」と言い返したニルセン。またヨアヒムも「それでよし、私は古い人間なのだ」と温かく背中を押した。こうしてニルセンの独自性は年々顕著になっていった。

生涯遺した六つの交響曲のうち本日お聞きいただく第4番まで、冒頭はすべてたたきつけるような短い強奏で始まっている。そしてこの第4番を境に第5番、第6番はいずれも静寂から開始されている。前述のように第4番作曲当時ニルセンは人生の岐路を迎えていた。火山の噴火のような冒頭と初演当時も評されたが、この交響曲は猛烈な勢いをもって出奔する船団のごとく、厳しい闘いへ漕ぎ出したまま最後の音まで止まることなく続けて演奏される。

モチーフが対決をするように語る第1楽章では、まるでニルセン夫妻の口論のような音楽が続く。424小節目から第2楽章に入るが、そこは木管楽器が主役となる場面。ノスタルジックな独特のニルセン節が展開される。クラリネット一本の時を告げるようなつぶやきのあと、弦楽器群が544小節目から情熱に満ちた旋律を、ヴァイオリンと、ヴィオラ&チェロの2つのグループに分けて奏でる。そこにティンパニとコントラバスが短い音で応答する。第3楽章の最後に2つのグループが急速なテンポで駆け抜けると待ち構えていた第2のティンパニ奏者が流れをいったん遮る。そうして第4楽章が始まる。距離を話しておかれる二組のティンパニ。そこから導かれる対決の音楽には、明らかにヴァイキング船団の影が見える。最後は高貴なホ長調で終結。その結論は勝利か確信か・・ニルセンはこの作品に対して「もし作品の内容に対して聞かれたら、戦争のようなものと言ってよい」と触れている。実際ドイツとデンマークの戦時下にもありその緊張状態も作品に影響を与えている。見え隠れするドイツの過去の作品たち。その昔若きニルセンを諭そうとしたドイツの楽人たちの言葉が表れるようでもあり、そこにおいてもニルセンは「やはり自分は独自の道を行く」と宣言したような終始である。(了)

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