名古屋シンフォニアプログラムノート

<劇的な日々の中で>

 本日演奏される3曲は“カレリア組曲”“フィンランディア”“交響曲第2番”の順に作曲された。そこに流れた時間は、フィンランドにとってもシベリウス自身にとっても物事が大きく動いた時代だった。

<<カレリア組曲 作品11>>

この原曲が生まれたのは1893年、ヤルノフェルト令嬢アイノと結婚し、“クッレルヴォ”の発表により「ここにフィンランドが誇る若き作曲家あり」と認められた直後だった。原曲は活人画というスタイルで上演された劇付随音楽。直訳すると「ヴィープリの教育を支援する祭典や宝くじのための情景音楽」。1893年11月13日にヘルシンキ大学のヴィープリ学生会が企画開催した。ヴィープリというのはロシアとの国境にある州で、その首都がヴィープリだった。1917年の独立当時にはフィンランド第2の都市の規模を持っていたがその後の大戦、またフィンランドとソ連の継続戦争を経てほとんどをソ連に占領され、第2次大戦終わりにはカレリアの街の名前もソ連により改名された。

時間を1890年初めに戻そう。当時フィンランドは、スウェーデンからフィンランド領を1809年に勝ち取ったロシアにより、その自治大公国として穏やかな形の支配下にあった。その態勢に変化がみられるのが1898年。ニコライ・ボブリコフがフィンランド総督に任命されてからである。1899年2月15日に発令された「二月宣言」にむけて、ボブリコフは着々とロシア側の主張を強めていった。フィンランド語、スウェーデン語に加えロシア語も公用語に、軍隊はロシア軍の指揮下に、新聞発行への検閲強化等々国民生活に大きく影響をもたらす内容が次々に発表された。ボブリコフ以前のフョードル・ゲイデン総督下に於いてはロシアの最後の皇帝、若きニコライ二世との関係も含めてお穏やかな状態を保っていた。18世紀までのスウェーデン統治下よりも、フィンランドの文化や言語に寛容で“カレワラ”をはじめフィンランド独自の文学の発展がみられたのも、この時期だった。とはいえ変化の兆しは徐々に訪れていて、この集会も「教育援助」の名目だったが実際は「国民主義者の集会」だった。

序曲のあとには、カレリア地方の長い歴史が8つの場面で演じられ、各場面の間奏曲として、また劇中音楽をシベリウスが作曲した。上演の十日後にはこの音楽から序曲と3曲を選曲し出版された。それが「カレリア組曲」となっている。

1曲目「Intermezzo 間奏曲」は、劇中の第3部と第4部の間の音楽。14世紀から15世紀の時代に場面が移る転換の時間の間奏曲となっている。2曲目「Balladeバラード」はスウェーデンのカール八世がヴィープリ城に佇む様子が歌われたスウェーデンの古い民謡集が原曲。1446年頃のヴィープリの場面である。オリジナルスコアではシベリウスは声域に言及していないが、初演時にはバリトンで歌われた。バリトンとホルンによりこの曲の最後の旋律が3回繰り返して歌われる。組曲版ではコール・アングレに編曲された。3曲目は単独でもよく演奏される「行進曲風に Alla marciaこの曲は第5部の半ばで間奏曲として演奏されていた。納税の場面でも使用された音楽となっている。楽し気な旋律のイメージが少し変わってしまうだろうか・・・。

<<フィンランディア作品26>>

この作品が生まれた背景は、カレリアと同様に劇付随音楽があった。上記の社会の変化の中で、1891年に発せられた出版物に関するロシア総督への権限一任の勅令は、フィンランド社会を大きく動かした。有力紙「パイヴァレヒティ」も一時休刊の事態となった。1899年これに伴い報道に関わる人の年金基金設立を目的とした集会を「報道記念日」として11月3日から5日に開催した。カレリアの時と同様に、この集会の真の目的は言論弾圧への反対集会だった。しかしこの頃すでにロシア人フィンランド総督も交代し厳しいロシアの監視の目を潜り抜け行う必要があった。フィンランド各地でこれは行われ芸術的なイベントのみならず、スポーツイベントや絵画の競売などもあり、資金は宝くじを発行という方法をとった。中でも11月4日にヘルシンキの中心地にあるスウェーデン劇場にて行われた「歴史的情景」という大掛かりな舞台劇がその後のフィンランドにとっても大切なものとなった。

この舞台劇は時代を辿りフィンランドの歴史的事実、出来事が上演された。カレワラに登場する「詩で世界を治めるヴァイナミョイネン」、フィンランド人の改宗を表わした「フィンランド人の洗礼」、16世紀トゥルク城を舞台とした「ヨハン公の宮廷」、17世紀前半の「30年戦争の時代」、ロシア軍との戦いがあった18世紀初頭「大いなる怒りの時代」、最後に19世紀フィンランドの現状の「フィンランドは目覚める」と6つの場面が演じられた。この最後の場面で現在の「フィンランディア」の原曲が作曲された。各場面は詩人によりテキストが作られ、それに則り演じられた。最終場は蒸気機関車を運転する労働者の姿が、新たな希望の時代の象徴としてあらわされている。この祝祭劇の中の「フィンランドは目覚める」と題された作品の中では、現在言われているフィンランドの独立への気運というものの表現ではなく、工業化により変わりゆく祖国の様子が意図されていたとみられる。そしてこの作品は2度にわたり改訂されている。付随音楽としての作品では、曲の最後の部分に現在ある賛歌部分のコラールの断片は出てこない。そして初めに改定されたときには、賛歌コラール部分が終結部に高らかに歌われている。最終稿つまり現行のフィンランディアはこの長い終結部は削除され、短くコラールの一節が奏でられ終止となっている。ところでこの「フィンランディア」という名前は後日シベリウスを支えることになるパトロンのアドヴァイスがあった。アクセル・カルぺラン男爵は、この命名へのアドヴァイスを1900年夏のパリ万博にヘルシンキの楽団が参加するための支援も含めてシベリウスのもとに「x」という匿名で送っている。パリ万博にむけて、世界に発信する「序曲」を作曲するべきであり、その名前は「フィンランディア」がふさわしいという提案だった。シベリウスは「フィンランドは目覚める」の音楽を独立した音詩として完成させ、パリ万博への遠征公演でも披露した。もっともヘルシンキではロシアの検閲を逃れるために、「スオミ」というフィンランド語によるフィンランドを意味する言葉に変更され、遠征先に於いては、「祖国」という名前で発表されていた。政治的な配慮が常に付きまとい、このフィンランディアは世の中に広まっていった。

<<交響曲第2番 作品43>>

1900年のパリ万博に向かったシベリウスは、その直前に大きな悲しみに見舞われていた。1900年2月、三女キルスティがわずか1歳数か月の命で天に召された。チフスだった。この衝撃はシベリウス夫妻に大きな影を落とした。パリ万博前に交響曲第1番を完成させ、遠征先でも演奏を続けていたが、帰国してからも悲しみに包まれていたシベリウス一家は先のカルぺラン男爵の勧めもあり南欧に向かった。まだ冬の時期ながらイタリアのラパッロを目指した。そこは海辺の保養地として知られるところだった。しかし滞在先の気候風土が合わず、アイノ夫人もあまり良い印象はもっていなかったことが当時の手紙に認められていた。そして旅先で次女ルートが高熱を出した。三女を失ったばかりのアイノ夫人は半狂乱になったという。幸い大事には至らなかったが、なんとシベリウスはそんな家族の様子に耐えられず置手紙を残し一人ローマに旅立った。夫の性格をよく知る夫人は、作曲に静寂が必要な状態を理解していたという。イタリアで交響曲第2番が完成することはなかった。帰国すると、アイノ夫人の姉エッレが鉄道に身を投げて命を絶った。シベリウス夫妻を訪ねる道々のことで夫妻に強い衝撃を与えた。

1900年初頭に生まれた「フィンランディア」「交響曲第1番」は、いずれもフィンランド国内だけではなく、国外に対してシベリウスの名前を知らしめるものだった。35歳という青年ながらフィンランドを代表する作曲家というレッテルが張られつつあった。そのような状態から2曲目の交響曲を作曲することに、生来の繊細な神経、自己への厳しさが密かに苦しめていた。進まぬ筆の中、フィンランドに於いてもシベリウスは、イタリアのラパッロと同様「水辺」の近くで仕事をすることを求めていた。自宅のあるケラヴァではなく、湖傍にあるロホヤに滞在していた。この「水」の存在が交響曲第2番の冒頭に反映されている。

第1楽章の冒頭は、聴く耳には心地よく演奏者には難しい。小節の初めから音が始まっていない。大きく始まりの音の拍を動かしたのは、初稿を改訂した時。楽譜の保管先の家の火事により、自筆譜は部分的に焼失している状態だが、手稿譜の冒頭は小節の初めから弦楽器による四分音符の音が休符を含め6拍並んでいる。この移動に伴いシベリウスが意図した律動は、具体的に波のイメージを強めた。交響曲第1番同様チューバを含む大きな編成の第2番。チャイコフスキーの後期交響曲の影響を受けていると言われているが、しかしその音の手法はシベリウス自身の後期の交響曲の顔が覗き始めている。シベリウスの特徴として「旋律がわかりにくい」というものがある。明確に一節歌いきれる旋律が少ない。その点がチャイコフスキーとは大きく異なる。そして各楽器をその節がバトンを渡すように流れてゆき、全体が構成されている。唐突な分断や休止が多い第1楽章と第2楽章。

特に第2楽章に聞こえる金管楽器による悲痛なコラール、そこにはDies irae(怒りの日)の旋律がちりばめられている。対して98小節目に長い休止の後に現れる弦楽器による祈りの節。これが♯6つを要する嬰へ長調。十字架を表わす調性で書かれている。この二つの要素にはシベリウスが体験した悲しみが色濃く反映されている。 疾風怒濤の第3楽章には、やはり対比となる穏やかな部分が挟まれている。静かな水辺の柔らかな水面の動きに抱かれたオーボエによる素朴な語り掛けは、第4楽章の勇壮な旋律へと発展してゆく。第4楽章に二度現れる鬱々とした反復する旋律と伴奏。一度目は35回転回するVaとVcの同じ短調の伴奏音型が続き36回目に長調へ変化、そして37回目に明るい光へと到達する。二度目はその同じ音型が楽器を渡り歩きながら73回繰り返される。そして同様に74回目で長調へと移行し75回目でこの交響曲の調性であるニ長調へと確信をもって進む。ニ長調は祝祭の調。共感覚を持つシベリウスにとっては「黄色」の調。シベリウスはこの作品に対して、「これは自己の魂の告白だ」と後年語っている。発表された当時は先のフィンランドの情勢もあり、ロシアの圧政に対してフィンランド国民を鼓舞する音楽の役割を持たされた。紙面の演奏評にそのように書かれてからは、その言葉が独り歩きしていた。「内なる声 Voces Intimae」という弦楽四重奏が生まれるのはこの少し後だが、内省的な作曲家が描いたこの劇的な交響曲が魂の告白だとすると、当時の心情が余計に胸に迫ってくる。

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