30年ぶりの夏休み

夏休みに入った。これほど本当にスケジュールが真っ白な夏は、高校生時代以来。音大に入り、卒業してもう一つ音大に入り、仕事を始めるようになり、この職業で何とか歩けるようになって数十年。もとい30年、8月に自宅待機の日々となったことはなかった。昨日、8月6日の木曜日に音大の前期授業が終わり、文字通り夏休みに入っている。表に出る仕事は、9月の後期授業開始までない。貴重な時間が始まる。
そして、秋以降ステージに立つ仕事は、公開のものはこのチラシにある愛知室内オーケストラの3つの定期演奏会と、12月の特別演奏会のみ。あとは音大の授業公演。 ただ、リハーサルというものが10月以降少しずつ始まる。これすべて2021年の公演分。2020年の今年の秋から冬にかけてのアマチュア楽団公演はすべてキャンセルとなっている。

この8月は何する時ぞ・・・課題は目の前に山ほど積み上げられている。
9月末に海を越えてのリモート仕事があり、その準備はかなり自分にとってハードルが高い。日々その仕事への下準備を進めている。さび付いている語学の学びなおしもその一つ。喜んで頂ける時間を作り上げたいと思っている。詳細はまた9月に。
そして10月からこれまでになく間隔をつめて開催される愛知室内オーケストラの定期演奏会への準備も佳境に入る。
長い下準備時期を終えて、いよいよ楽譜とのひざ詰めの対話。ここからが本当の勝負。様々な知識、作品の背景、関連する学びなど自粛期間から続けてきたが、それが演奏する作品にどう生きるか・・・たくさん知っているから、ではない。情報があるから、ではない。どう作品の言葉を読み取れるか。それは「楽譜に忠実に」という言葉の先にある姿勢。作曲家がどうしてその音を必要としたか、何を構築したか、どんな思いを込めたのか・・・再現音楽家という立場にあってはそこから離れることはできない。でもそれは作曲家の意図に忠実にという一面的な姿勢だけで成り立っているわけではない。以前にも別のところで書いたことがあるが、そもそも楽譜を音にする、という中にどれだけの事柄が含まれているか。演奏家の違いで、指揮者の違いで演奏にこれほど幅広い解釈が存在するということは、AIの世界で将来すべて分析できてしまうようなものなのだろうか。

この自粛期間に自分が継続してきた、ベートーヴェンのピアノソナタを順番に弾いていくという行為。そこには様々な面白い発見があった(ある。まだ継続中)。以前に勉強した作品を手にした時、今自分の指から流れる音は、以前のそれとはまったく違う。同じように楽譜をきちんと読んで演奏しているつもりだが、出てくる音もその背景に見える世界も全く違う。意図してそうなっているのではなく、そのようにしか感じ取れないからその音をそのように出すのだ。という禅問答のような言い訳をしながら弾いている。指揮という本業に於いても、そういうこと。同じ作品を何度も演奏してきているが、同じ演奏にはならない。リハーサルを積んでいてもそこでの発言は、変化がある。時には180度異なる発言をすることもある。決して違う楽譜を読んでいるのではない。初めの指揮の師匠に「素晴らしい作品ほどに、様々な解釈が成り立つ」と言われたことがある。その幅と作品の中の大きな深く広い世界をどこまで読み取り、掘り下げることができるか、という部分に演奏する音楽家自身の力量、人間性、人生等々が自然に関わってくる。演奏家の人生も反映するだろう。思考の深まり、感覚の鋭敏化、哲学の反映等々、それによりかなり演奏のスタイルは異なってくる。それでもやはりそれも含めて取る姿勢は「作曲家の意図を汲み取る、楽譜に忠実に」の範疇だと思っている。

10月以降手掛ける、ベートーヴェンのSym.6.5.7番はいずれも演奏経験がある。ゲーゼもSym.6.5は演奏している。今あらためて楽譜を見ていて、これまでとは異なる視点と耳で楽譜を読んでいることを自覚している。それがどんな結果になるか、楽しみでもあり恐ろしさでもある。

たっぷりと時間があったはずの3月からの自粛期間。音大でのオンライン授業開始とともに、これまでにない準備時間を必要とするようになった。自分は7月初めから対面授業に戻り、以前のペースを取り戻せたが、現在もオンライン授業継続せざるを得ない環境の先生方が多くいらっしゃる。様子を拝見するに、かなり大変な状況。決してオンラインが楽であるということはない。それだけは断言したい。特に講義授業を持つ先生方は、準備作業が膨大だ。
この状況は後期も続く。自分の二つの講義も、対面とオンライン併用。

この状況下、ネット環境による発信加速状況を見ていて 若い世代の音楽家たち、またクリエイティブな仕事の皆さんの発信力の高さ、ネットを通しての主張の方法、工夫、様々な姿を見ていて 自分が彼らの年齢の頃を思い出してあまりの違いに眩暈がする想いだ。 携帯スマホのない時代、パソコンさえも手軽なものではなかった時代。インターネットなるものでこんなに世界が小さくなってしまった中でこれから生きて活動を広げてゆく若い世代の皆さんに比較して、確実にアナログ的な情報伝達手段、情報獲得手段で動き回っていた自分の当時の時間は、なんと泥まみれでカオスで、そしてまったくもってスマートではなかったと益々痛感している。でもそこを歩んできたのが今の自分であることは十分に認識して受け止めている。

お盆前ということで、どうしても天国にいる家族を思い出してしまうが、妹を突然失ったのが自分が20歳の時。そして自分の人生が大きく変わったのが40歳手前。その後の20年弱の時間で両親を天国に見送った。この20年ごとの大きな人生の変化を考えると、どうしても来年から始まる次の20年という時間を区切りたくなってしまう。それを意識し始めたのが1年前。其のころから2021年スタートの新たな自分の歩みというのを漠然と考えていた。未来を考えると同時に、これまでの歩みでどうにも不足している自分の中身に対して、自分の中に怒りを覚えるようにもなっていた。その原因はもちろん自身にある。修正には遅すぎるという想いと、諦めたらもう止まるしかないという恐れと。この年齢になっても未だ悪戦苦闘する悲しき自分がいる。
歩みの変化は決まった。そして決めた。あとはここからの20年という時間の意味を、自分自身にも、またこれまで支えてくださった皆さんにも、応援してくださるお客様に対しても、これまで以上に大切にかみしめ、答えを出してゆこうと思っている。何より世の中に解き放ちたい多くの素晴らしい作品の言葉が、自分を急かしていると感じている。音楽作品は演奏されなくては届かない。未知の、またはまだあまり知られていない作品と創造の才に恵まれた作曲家は本当にまだまだいる。その機会を作ってゆくのも指揮者の一つの使命だと、やはり思う。
この夏休みはそこに繋がる一歩になると思う。汗をかこう。

ところでグレイヘア準備期間を入れると半年が経過。染めないことの利点をたくさん味わっている日々。昔の写真が目に入ると、「あ~ストレート黒髪なつかしかああ」という気持ちももちろんあるが、経年変化で自然にこうなったのでそのまま受け入れてゴールまで進む。自分は髪に関しては若いころから実に変化が多くて、かなり髪にストレスがかかっていた。そこを解放したことで、確実に髪も頭皮も顔の肌も変化した。自分は本当に楽になった。これが自然。心なしか、気持ちが楽になっている。ある意味年齢を受け入れたのかもしれない。中身は育っていないが。

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