弾く10

Beethoven piano sonata no 17

名曲たる所以について、考えながらこの通称テンペストに向かった。作品31-2、d-moll. この曲も実は初見。子供時代の自分では全く向き合えなかったと思う。第16番から第18番までは作品31。1801〜1802年に作曲の一群。
特徴的なアルペジオから生まれる響き、そこから羽ばたく続く音型。ピアノの可能性とともに音響的な新たな響きというものが模索されていると弾きながら感じる。レチタティーヴォ風のフレーズは後世の初期ロマン派の作品にもみられるし、また管弦楽作品の中にもその形は定着してゆく。

第二楽章の、音の隙間に大変に惹かれる。管弦楽への編曲のイメージも浮かぶ。複付点音符のリズムは、言語的にも非常に強いストレス、強調を感じる。スラーのしっぽながらきちんとした発音をと思う。付点とそれにともなう短い音符については、以前オペラプロジェクトの中にいた時に、ドイツからのコレペティトゥアの方から口を酸っぱくして言われた。短い音が大切であるということを。それはワーグナーの作品の中であったが、特にドイツ生まれの作品には当てはまる。

第三楽章は、耳でたくさん経験していた。テンペストなる通称には所以があるが、この楽章が様々なドラマの背景に使用されるのは、止まない揺らぎ、性急な感情の変化、音型にそのような要素が見事に描かれているからか。冒頭の左手の音型は、二つ目の音のタイ音へのこだわりを意識する。隠れたリズム、律動がある。ただただ速く流麗に弾けば良いというものではない。

この作品が生まれた当時、200年余り前の話だが ピアノという楽器の発達発展改良も作曲に大きな影響があった時期。
しかし思うに、ベートーヴェンという人がこの時期からどんどん外界の響きからの遮断という辛い現実が始まっている。同時に内的響きを頼りに生んだ作品は、どんどん新しく斬新になってゆく。この創造の才、創造の魂、そのことを再認識するこの頃。中学生の頃弁論大会で選ばれたことがあった。その原稿内容はベートーヴェンの交響曲を扱ったもの。作品からいかに力をもらったか・・ということを書いていた。今読むと稚拙な文章で恥ずかしいが、あの頃の方がおそらく自分は非常に素直に音楽から受け取ることに対し反応していたように思う。今はどうしても一度分析をして咀嚼して、そして表出する時にまた考えて・・ということを聴くときも指揮をするときもしている。それは必要な事だが、最近は自分がまとっている何かの鎧をすべて取り去りたいと感じることも多くなっている。指揮の仕事ができない月日が長くなってきて、仕事に対しては客観的に、音楽に対しては直接的主観的にという視点を持っているのを自覚している。仕事に戻る感覚を明確に意識しなくては。

来週から音大での合奏授業が始まる。感染防止対策をとった上での授業となる。部屋もかわり、セッティングも距離をとり余裕をもった並びに変更し、おそらく指揮者のまわりはパーテーション。そのような姿から始まる予定。
講義授業も始まる。ようやく履修生の姿を見ることができる。

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