懲りない人類

 たくさんの権力や力を発揮するツールを持っている人や国は、みんな怖いのだろうな・・・。

その力がどんなに危ういか知っているから。

そんな言葉が頭に浮かんだ。

昨日は暑さの中、初めて蝉の声を自宅そばできいた。

そして、

初蝉にきのうの夜の音さがし・・・

などというものを詠んでしまった。
詠むなどおこがましい、浮かんだ言葉だった。よほど暑かったのか。

あの蝉の(アブラゼミ)音は強力だ。二匹競い合って鳴かれると、大変な騒ぎとなる。
それは、どうしても合わない音だったりする・・・。自然の中で合わない音が同時に鳴ってもあまり気にならない。
しかし、音の現場で合ってほしい音が合わないことは、なかなかシビアな時間を生む。

和声的な耳、音色を聞き取るなど、そんな耳の育て方をあまり行わない日本。
別に専門家だけに必要なことではなく、スクールバンドでも、アマチュアの活動でも、聴きあう、自分の音を周りの響きに溶け合わせる、音色が語ることを受け取り考える、などなど、あまり行っていないことが残念に感じる。
タイミングを合わせたり、効果的な表現を考えたり、それだけで終わらずにもっともっと音の根っこをお互いに聞き取る気持ちと神経を持つことで、かなりのことが解決するのに・・・

北欧に関わりだしてから特に、そのことは自分にとって大事なポイントとなっている。音の情報の授受は相互のものだ。一方通行のアンサンブルはつまらない。Korvat auki!! 耳を開けは本当に大事なことだと思う。
サロネン、サラステ世代がフィンランドで行っていた活動、その積み重ねからも実に多くのことが生まれている。

日本の政治の世界をみていると、結局お互いにまったく相手を聞いていない、聞こうとしていないということがわかる。自分が子供時代の国会中継の姿から全く成長のない現在の様子。もう同世代が国のトップと担っているわけで、それはあまりに悲しい。それが日本だということだ。

虫の音をきき、夜風に揺れる葉音を知り、言葉を詠み、それを共有して味わい・・・
 

座ればすぐに画面を見て、歩くときは耳がふさがれていて、そんな日々では世の中の本当の気配は
キャッチできないよね・・・と、強く思うようになってきた。
意識して携帯やスマホの画面を見ないで乗り物に乗っていると、ホームに佇んでいると、人の視線がいかに現在下向きなのかがわかる。それは時々恐ろしい全体主義のように感じてしまう。

いろいろな規則が作られたようだけど、今もって画面を見ながらの歩行は大手をふっているし、
どうして、自分の前には誰も歩いていない、何もないという確信がもてるのかわからない人がたくさんいる。

大きな事件や事故や問題を起こすことが危険なのではなくて、世の中を感じ取ろうとする感覚を遮断することが、とっても危険だよ・・・・・・と、自分は心で叫んでいる。自分に言い聞かせている。

 

どう考えても全世界きな臭い。あぶない雰囲気だ。

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