日立フィルハーモニー第 15 回定期演奏会 プログラムノート

1957 年 9 月 20 日、ジャン シベリウスは夕方静かに息を引き取った。翌日の報道は大きなものだった。そしてその同じ紙面のほんのわずかのスペースに、同じく 9 月 20 日で 72 歳の生涯を閉じた作曲家の記事があった。ヘイノ カスキだった。

<前奏曲 変ト長調 作品7      ヘイノ カスキ( 1885 ~ 1957 )>

 シベリウスから 20 年後の 1885 年 6 月 21 日にフィンランドの東側、現在のリエクサという町の一部であったピエリスヤルヴィに生まれたヘイノ カスキは教会の牧師だった父親から音楽の手ほどきを受けている。ヘルシンキでは教会オルガンの勉強とヴァイオリンの勉強を行う一方、プライヴェートでエルッキ メラルティン( 1875 - 1937 )そして後にシベリウスにも作曲を師事している。そしてシベリウスの推薦を受け、 1911 - 1914 と 1920 - 1924 の2度に渡りベルリンに留学をしている。

 ヘイノ カスキは多くの室内音楽と 100 を越えるピアノ作品が良く知られている。サロン作曲家と称される所以である。同じ北欧ノルウェーのエドワルド グリーグと比較されることが多いようだ。カスキには変ロ短調の交響曲があり、自身ではこれを主要作品として挙げている。この前奏曲は 1912 年に書かれたピアノ作品。甘美な旋律を優美なハーモニーで占められた小品である。

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 1900 年のパリ万国博覧会にシベリウスは副団長として、そしてロベルト カヤヌスの副指揮者としてヘルシンキフィルハーモニーに同行した。ここでシベリウスの「交響曲第 1 番」「フィンランディア(当時は祖国と名前を変えて演奏)」「トゥオネラの白鳥」などが演奏された。 20 世紀の初め、フィンランドはまだニコライ二世皇帝のロシア帝国の支配下にあり、 19 世紀末から後年独立運動に繋がる自治政府での憲法擁護派とロシア化を容認する勢力の対立が強まっていた。そんな中シベリウスはフィンランドをまとめる、自由闘争の象徴としてフィンランド全国民から期待される作曲家となっていた。

<交響曲第 3 番 ハ長調 作品 52      ジャン シベリウス( 1865 ~ 1957 )>

 1892 年 4 月フィンランドの国民的文学、カレワラ叙事詩にテーマを持つ交響詩「クッレルヴォ」の初演がヘルシンキ大学講堂で大成功を収めた後、シベリウスはアイノ ヤルネフェルト嬢( 1871 ~ 1969 )と結婚した。若くしてその才能を国家に見出された作曲家シベリウスは その後およそ 10 年の間、ヘルシンキで、又旅先のベルリンで芸術家仲間と都会生活の中で人生を謳歌。酒場で深夜までの芸術論政治論を戦わせることに夢中になっていた。家庭を持ち、 1893 年に長女のエヴァを 1895 年には次女のルートを授かり、 1896 年からは政府による芸術家年金を受け安定した生活に見えていたシベリウスだったが、その実経済的には困窮しそれでも贅沢で享楽的な生活はやめなかった。特に身なりへの高級志向は結婚前のベルリン留学時代にもその片鱗を見せ、奨学金が短期で底をつくという事態を招いたほどだった。喫煙と飲酒は交響曲第 4 番を書く頃、咽頭ガンが見つかるまで続けられた。

 この作曲家の生活を立て直そうと 生涯をシベリウスへの支援に費やしたアクセル カルペラン伯爵( 1858 ~ 1919 )はシベリウスに都会を離れ郊外へ居を移すことを薦めた。こうして 1904 年夏の終わりに一家はトゥースラ湖から 2 キロというヤルヴェンパーという地域の土地に終の棲家、「アイノラ」の家を持つこととなった。

 1899年に交響曲第 1 番を完成、 1901 年にイタリアで交響曲第 2 番を書き始め翌年完成させたシベリウスは仕事上の成功とは反対に、経済的困窮の原因を作ってしまう自己の弱さを家庭で痛感しながら日々を送っていた。己の弱さから逃避するために痛飲し、又生来のあがり性を克服するためにも、指揮台に立つ前に飲酒をすることもあったようだ。 1904 年に初演を迎えた後世に残る名曲「ヴァイオリン協奏曲作品 47 」を自己批判から改定を行い 1906 年に決定稿を発表、そして「ポホヨラの娘作品 49 」を続けて作曲。その後ロンドンで 1907 年春に自作の指揮の約束があったシベリウスは 1904 年秋から着想を得ていた交響曲第 3 番にとりかかった。実際は完成が 1907 年秋になってしまったためロンドンでの初演は叶わなかった。 1907 年 9 月 25 日にヘルシンキで初演。翌年春にはロンドンでも自らの指揮でこの作品の披露を行っている。

 モーツァルトとメンデルスゾーンの天衣無縫の才能をシベリウスは崇拝していた。又ベートーヴェンの才能には「才能は普通、しかしたゆまぬ努力で偉大な作曲家になった」と評し、若い頃は自分と同列の才能と感じていたらしい。しかし 1890 年第9交響曲の実演に接し打ちのめされている。同じ頃ドイツで接したワーグナーにはその壮大な才能に畏敬の念と崇拝の心を初めは持ったが、後には「大げさすぎる」ことに嫌悪を示していた。ブルックナーには第3交響曲に接した際、その精神性に深く惹かれている言葉を残している。隣国のチャイコフスキーには自己と同じ感性を感じていたようだが、後年比較して自作の強固さを強調するようになった。 1907 年秋にはヘルシンキでマーラーと会っている。お互いに自尊心が邪魔して会話は弾まなかったそうだが、いずれにしても両者の音楽観は相容れないものであったらしい。これらの他の作曲家へのシベリウスの意見表明を見て行くと、彼が時代と年齢とともに自己の音楽観と表現の方向性が変っていくことが見受けられる。

 第 3 交響曲でシベリウスは大きな転換を行った。アイノラという環境でシベリウスは内なる声を聞き、様式を整理し古典的な要素を盛り込んだスタイルへと創作は新たな段階に入った。「あたかも脂肪組織や華やかな外面の交響的な美しさの部分を殺ぎ落としているような」と評されている。

 作品の古典主義をまず、全体の構造の縮小化に見ることができる。第1交響曲も第2交響曲も 4 楽章形式であった。第 3 番は 3 楽章からなる。編成も通常2管編成でテューバは使用しない。打楽器もティンパニのみである。

 チェロとコントラバスのユニゾンメロディから始まる 第一楽章 は、大地に響く遠くからの民族的足音のようでもあり、古典的なリズムの遊びのようでもある。牧歌的なメロディや弦楽器が織り成す 16 分音符の無限に続くかのような動きは、ハ長調という調整とも相まって自然界の姿そのものを描いているように思われる。第二楽章を支配している4分の6拍子の民族的な主
旋律はシベリウスが頻繁に用いるスタイル、4分の6拍子と2分の3拍子の交錯を含んだメロディである。第三楽章は非常にめまぐるしくテンポ変化の指示がある。前の楽章との関連するモチーフの片鱗を織り交ぜながら、最終的にハ長調の荘厳な讃歌のフィナーレと向かっていく。「混沌からの思考の明確化」という言葉でシベリウスは最終楽章を説明している。

 1865年 12 月 8 日にハメーンリンナで生まれたシベリウスは、わずか 2 歳で医者であった父を病気で亡くしている。母の実家に身を寄せ元来スウェーデン語を話す家系で育っていたが、 10 歳頃からフィンランド語系の学校に通い始めた。フィンランド語のネイティブではないということは、後世歌曲の詞の選択や夫人となるアイノ ヤルネフェルト家の交際に影響を残している。フィンランドはロシアの支配を受ける前はスウェーデンの統治下にあった。その名残でフィンランドの西側を中心にスウェーデン語を話す国民が集まっていた。又当時の上流階級はスウェーデン語を使用していた。シベリウス夫人となったアイノの実家のヤルネフェルト家は そんな中フィンランド語復興運動に積極的でフィンランド文化の独立化を推進していたリーダーでもあった。アイノの父親のアレクサンデル ヤルネフェルトはボスニア湾沿いのスウェーデン文化が強く残るヴァーサで地方長官をしていた名将軍であった。ロシアの貴族の家系である。名士であり、フィンランド語を強く支持していた一家に対して若いシベリウスは強い劣等感を覚えていたようだ。シベリウスのこのような劣等感は逆に彼の貴族趣味に反動となって現れていると思う。金銭感覚に乏しかった生活は晩年には改善しているが、その影には賢婦アイノ夫人の強い支えがあった。アイノラの里と呼ばれるシベリウス一家の終の棲家には筆者も 2001 年夏の終わりに訪れている。決して壮大な屋敷ではない、木造の質素な構えの温かな家。サウナ小屋もあり、アイノが丹精込めて作ったリンゴ園も今なお実をつけ、その木の傍らに今は眠るシベリウス夫妻。一般にフィンランド人は内向的な性格、厳格で生真面目と言われる。そんな気質がシベリウスの生涯の中に、作品の中に見事に表れていると言えよう。厳格な面持ちの中に潜んでいたシベリウスの激しい情熱と気性、そして人間的な弱さや葛藤、それらをアイノラの里の広大な自然は大きく包み込み、何事もあるがままという自然界の掟をシベリウスの中に染み込ませていったのではないか。幼少の頃夢想家で自然との戯れを好んでいたシベリウスだが、青年時代に一度は離れていた世界をアイノラの土地は思い出させてくれたのだろう。自然の中に人間が住むというフィンランド人の哲学をこの第3交響曲以降特に絶対音楽の中で色濃く見受けられる。この作品のフィナーレの讃歌もためらいがちに控えめな想いから始まり、クライマックスに至っても決して圧倒することなく、まっすぐな想いを自然への感謝を込めて歌い上げている音の言葉に筆者は強い感銘を覚える。

(2003.7.27 掲載) 

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