アンサンブル・フラン第35回定期演奏会 プログラムノート

✤✤ プログラム ノート ✤✤

~ 特別寄稿 チェコ音楽の散歩道 ~

    新田 ユリ

 

チェコスロヴァキアがチェコという国家になって来年で20年。198911月のビロード革命(民主革命)後、1993年にスロヴァキアとの連邦を解消。現在の正式名称はチェコ共和国。

写真はドヴォジャークの別荘ルサルカ荘門前の田園風景)

 

;1841・・・・・・・・・ワルツ(1880・・・・・・1904

  ;1854・・・・牧歌(1878・・・・・・・・・・・・・・・・・・1928

       ;1874・・・・セレナーデ(1892・・・瞑想曲(1914・・・・1935

 

ヨゼフ・スク作曲 チェコの古いコラール「聖ヴァーツラフ」による瞑想曲

 

この曲は本日唯一の20世紀に作られた作品、その主題はチェコの古い歴史を語っている。プラハ市内には曲名に出てくる「聖ヴァーツラフ」に因んだ像が複数ある。

この写真は国立博物館前のヴァーツラフ広場にある像。ヴァーツラフ一世は在位921年~929年の実在の国王。少し歴史を紐解くと、チェコの土地に最初に入ったのはケルト人。<ボイイ人の土地>という意味のケルト語“ボヒオヘミア”からボヘミアと呼ばれるようになった。その後ゲルマン民族大移動でボヘミアに人がいなくなり、スラヴ人が6世紀に入植。この民族がチェコ人の祖先となり、その後200年の様々な争いを経て9世紀にスラヴ人が“大モラヴィア王国”を築くも内紛でやがて勢力が衰え“プシェミスル家”が台頭し国家を形成。この一家の、ボヘミア候となったポジヴォイがヴァーツラフ一世の祖父にあたる。孫のヴァーツラフは敬虔なキリスト教徒として謙虚な心で近隣諸国との外交に手腕を発揮し、友和政策でその侵略から国を守った国王として尊敬を集めるが弟のボレスラフに殺害される。国王の死後は、チェコに危機が迫るとブラニーク山に眠る聖ヴァーツラフと騎士達が復活して助けに来るという守護聖人伝説が残った。亡くなった928日は聖ヴァーツラフの日とされている。ヴァーツラフのお墓があった場所に後に大聖堂(聖ヴィート教会)が建設され、それを取り囲むように現在のプラハ城が600年の歳月をかけて建築された。この曲はいわばチェコの基礎とも言える聖人にちなんだ作品、これはスクの「愛国的三部作」作品35の初めの曲。第1次世界大戦の初めの時期19148月に作曲。日々の幸せを祈り願う想いに満ちた13世紀に作曲されたコラールを主題として用いているのは意味がある。スク自身もセカンドヴァイオリンを演奏していたチェコ(ボヘミア)四重奏団(写真)により191494日に初演され、のちに弦楽合奏に編曲され同じ年の1122日にチェコフィルハーモニー管弦楽団で演奏された。

プシェミスル家は1306年に断絶。その後ルクセンブルク家から国王が生まれ、現在も名前が轟くカレル四世(在位1346-1378年)が登場。プラハの聖ヴィート大聖堂、カレル橋、中欧初の大学カレル大学など現在も残る歴史的建造物がこの時代に建てられている。

チェコの歴史に重要な “フス教徒”という存在はカレル大学の学長になった聖職者ヤン・フスによる教会改革の運動から生まれている。カトリック教会はヤン・フスを1414年の宗教会議で異端として断罪。その後のフス派の抵抗は激しく、ボヘミア南部に要塞都市ターボル(写真)を建設。この時代に“神のおきての同胞たち”という同胞同盟の精神がボヘミアを貫いた。これが現代にもつながるチェコ魂の素となっている。スメタナ作曲の「わが祖国」をはじめとして、チェコ音楽を代表する作曲家は史実に基づいた作品を多く残している。

 

アントニーン・ドヴォジャーク作曲 2つのワルツ 作品541,4

 

1873年、32歳のドヴォジャークはアンナと結婚。アーダルベルト教会のオルガン奏者をしていた。ヤナーチェクはこの演奏を聴いている。ドヴォジャークは当時交響曲第5番まで作曲、有名な弦楽セレナーデは1875年に、またスラヴ舞曲集第一集も1878年に出版しプラハでは名前が知られていた。交響曲第6番を作曲した1880年、39歳の時にピアノ曲「8つのワルツ」が作られた。この1曲目と4曲目を作曲者自身により弦楽合奏に編曲。1曲目はModerato、優雅で気品のあるイ長調、2曲目はAllegro vivace、軽快なピアニスティックな動きが特徴。ニ長調という弦楽に適した調性は、オリジナル作品かのような印象を与える。          (写真はドヴォジャークがこの曲を作曲した当時の住居)

 

レオシュ・ヤナーチェク作曲 牧歌

ドヴォジャークより13歳年下のレオシュ・ヤナーチェクが生まれたフクヴァルディという村は、モラヴィア地方の東北端、スロヴァキアに近い地方にある。レオシュの祖父、父ともに村の教師として教会のオルガン奏者や聖歌隊の指揮も務めた。レオシュの父、イジーは16歳で北モラヴィアの村に教師として赴任。その後レオシュが生まれたフクヴァルディに移住。ここはポーランド国境シレジア地方に近いため、言語もその影響を受けていた。その特徴の一つに長母音が短いことがあった。そのためレオシュ自身ヤナーチェクという苗字をきちんと発音できず、後年ブルノに移ってから電話の応対に「ヤナチェクです。ナは長いナです」と答えていた逸話が残っているという。(日本ヤナーチェク友の会HPより)

レオシュは小学校を終えると、家計のためにモラヴィア地方の首都ブルノにある、アウグスチノ修道院(写真)に入る。この修道院は現在も残っていて、学術センターとしての機能も持ち、遺伝学で知られたメンデルも赴任。この修道院でえんどう豆の交配の論文をまとめた。ヤナーチェクは厳しい規律の中で学業に励み、聖歌隊で歌い、また音楽教育も受ける日々を送った。187218歳でブルノの師範学校を卒業、その後も音楽教師としての免許を得るためにプラハのオルガン学校に入学。休職しての留学だったため2年かかるコースを1年で学ぶという厳しい勉学の日々だった。苦学生としての日々、1874年にドヴォジャークと出会う。ドヴォジャークのオルガン演奏に接して多くを学び、世代を超えて交友が深まった。1875年にオルガン学校を優等で卒業、ブルノへ戻り国家試験に通り音楽教師としての人生が始まると同時に作曲と演奏活動も活発になっていった。ドヴォジャークの弦楽セレナーデは1875年に作曲されているが、この作品の影響を強く受けて 6楽章からなる「組曲」と本日演奏される7楽章を持つ「牧歌」が作曲された。ヤナーチェクの主な作品はその独特な和声・旋律・リズムにモラヴィア地方の民謡の影響が強くみられるが、この初期の作品にはまだ顕著な形では現れていない。しかし1878年に作曲された「牧歌」は第3楽章の四分の五拍子や、第5楽章の哀切を帯びた旋律にその特徴がみられる。「組曲」と比較するとより独創的と言える。「牧歌」の初演はドヴォジャークも臨席した。

 

ヨゼフ・スク作曲 セレナーデ

 

ヨゼフ・スク1874年ボヘミア地方のクジェチョヴィツェに生まれた。父親は学校の校長、そして教会のオルガン奏者、合唱指揮者をしていた。188511歳の少年スクは、プラハ音楽院にまずヴァイオリン専攻で入学、そして1888年からドヴォジャークのもと作曲の勉強に熱心に取り組むようになる。189218歳で卒業、その卒業の夏に師であるドヴォジャークがプラハの南にあるヴィソカー ウ プシーブラムニェ村の別荘ルサルカ荘(写真)にスクを招待する。在学中のスクの作品が短調で、やや重苦しい性格の作品が多かったことから、夏のヴィソカー村で気分転換をして明るい作品を書くように勧めたのがこのセレナーデの作曲につながった。実はそこには師の思惑もあり、ドヴォジャークの娘である当時14歳のオティリエが滞在、その出会いも大きな刺激となったようだ。1898年に二人は結婚している。初演は作曲の翌年1893年に初めの二つの楽章が、そして1894年には全曲がプラハで行われた。当時スクはチェコ(ボヘミア)四重奏団(写真)のセカンドヴァイオリン奏者として名前が知られていたが、この作品の発表で作曲家としての知名度を上げた。

作品は師の弦楽セレナーデの影響を色濃く受けているが、変ホ長調の調性を選択したことでより抒情的な弦楽の響きとなり、緩徐楽章の息の長い旋律、声部の分割を多用した厚みのある響き、民族的な色調の旋律など、独自の道を明確に書き記した若き出世作。昨年2011年に亡くなった同じ名前のヨゼフ・スクというチェコを代表するヴァイオリン奏者はこのスクの孫にあたる。つまりドヴォジャークの曾孫でもある。

本日のプログラムはおよそ10世紀にわたるチェコ(ボヘミア・モラヴィア)の歴史を網羅する作品が並ぶ。中欧で最も美しい国と言われる国には、実は大変複雑で重い歴史があり、そこに深く文化が根付いているということも その作品たちが語ってくれる。

                                                              写真・資料提供 佐伯正則

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