アイノラ交響楽団第5回定期演奏会コラム
「時の舟」 新田ユリ
エン・サガ1892年作曲(1902年改訂)、
カレリア序曲1893年作曲、
20世紀への橋が見えてきたこの時期、ついこの間われわれが経験したミレニアム?千年紀にあと100年という漠然とした壮大な期待感は存在していたのだろうか。
青年シベリウスの姿は最近ようやく一般的にも知られるところとなってきた。晩年の厳めしさからは想像できない若者らしい放蕩。飲酒癖、贅沢嗜好。それらは性格だが本質ではない。長命のシベリウスの音楽人生には、この時期にシベリウス夫人となったアイノ夫人の大きな影響力と深い愛情が見て取れる。
作曲家夫人による書というと、かのグスタフ・マーラー夫人のアルマ・ヴェルフェル?マーラーによる著「Gustav Mahler:Erinnerungen
und Briefe(グスタフ・マーラー 回想と手紙)」がよく知られるところ。そしてこの著作のために作品の史実や背景の情報が混乱しているようだ。残念なことにマーラー夫人による回想本は、史実に忠実ではない部分が多いという研究者の指摘が挙がっている。
一方シベリウス夫人はというと、こちらは「書簡集」という形でアイノさんの言葉を読むことができる。アイノ夫人は1871年の生まれ。シベリウスを看取り1969年に亡くなるまで、娘たちに囲まれ静かに暮らした。手紙の記録も晩年は非常に少ない。その手紙は若いころはヤンネ(シベリウスの愛称)や兄弟へ、そして結婚してからは実家の両親、兄弟やお世話になった皆さん、晩年にも親戚や娘への手紙が並んでいる。
「エン・サガ」に取り掛かっていた1892年5月の手紙、まもなく結婚するヤンネへ「Oma kulta!(私の愛する人)!」という呼びかけで始まり「ありがとう、ありがとう、愛する天使、愛情に満ちた手紙をありがとう!」と青春の歓びがあふれる文章に満ちている。身の回りで起きたことを数行つづると最後には「ごきげんよう、愛する人!
心からの愛を送ります! お元気で大切な人! ごきげんよう! 1000回愛しています」
6月10日の結婚式のあと、カレリアの地への新婚旅行そしてヤンネの一人旅。それらを経て「エン・サガ」、「カレリア」が生まれている。同時期に作曲されたものとして、この2曲に通じる音楽的な特徴は時折差し込む「明るい光」。開放的な明るさを持つ作品は非常に少ないシベリウスだが、この二つの作品の中には、生への期待と己のルーツを知り誇りを持って奏でる力強さがある。
スウェーデン語を母語とする家庭で育ったシベリウス少年、のちにフィンランド語の学校で学び、そしてヤルネフェルト家というまさにフィンランド文化啓蒙活動の中心的存在であった一家の娘アイノ嬢と結婚。フィンランド人としてのバックボーンという目に見えない強い支えを得たのではないだろうか。結婚を前に、シベリウスはウィーンとベルリンへの留学を行っている。かの地では、中欧の音楽界の大きな波に時には飲み込まれ、時には投げ出され、そして己のルーツをより強く意識していった。
音詩「エン・サガ」はシベリウスの管弦楽作品としては本当に初期にあたり、この作品の前には「序曲ホ長調」と「イ短調」、「バレエの情景」、そして「クッレルヴォ」があるのみ。
現在手元に、音詩「エン・サガ」オリジナル稿(1892)の元となった「7重奏曲」を復元したものがある。これはグレゴリー・バレット(Gregory
M. Barrett)氏による楽譜。スコアの解説によると、「7重奏曲」の楽譜はすでに紛失しているが、オリジナル管弦楽版はヘルシンキフィルハーモニーのライブラリーにあったということ。しかしこの楽譜も曰くつき。一時期行方不明になっていたところ、指揮者のアラン・フランシス(Alun
Francis)が1970年代にオックスフォードのアンティークショップでそれを見つけ、指揮者のパーヴォ・ベリルンド(Paavo
Berglund)に渡し、のちに無事にもとのヘルシンキフィルに戻ったという歴史があるそうだ。この復元された「7重奏曲」は950小節を持つ。本日演奏の1902年改訂版は810小節。140小節分の削除は大きい。「7重奏曲」の393小節目から始まるモチーフが、現在の版には全く現れない。「クッレルヴォ」にも通じる非常に勇壮なテーマが聴こえる。492小節目から少しずつもとのテーマと混在して、現在の版の後半部分へと突入する。この省略されている部分の基本リズムが現在の版では伴奏形となって木管楽器に書き込まれている。
アイノ夫人は1969年6月8日に亡くなった。6月10日のHelsingin sanomat(ヘルシンキ新聞)紙面において、エリック・タヴァッシェルナ(Erik
Tawaststjerna)氏の記事が掲載された。その中に晩年のアイノ夫人との語らいの場の模様がある。・・・7つの交響曲などの作品に思いをはせながら語らう何物にも代えがたい宝物の時間を過ごす中、「カレリア組曲」の初演の話もでた。そしてその場面が突然よみがえったかのように、アイノ夫人はバラードの一節を口ずさんだ・・・。アイノ夫人との出会いは世の中に作曲家シベリウスがまさに誕生した頃、「エン・サガ」、「カレリア」は二人三脚で人生を歩みだした青年時代の産物の2曲である。
そこから23年の月日が流れる。
交響曲第5番1915年作曲(1916?1919改訂)、前年1914年6月28日のサラエボ事件を発端に第一次世界大戦という20世紀の苦しみが始まった時期。その昔エン・サガ作曲当時27歳の青年シベリウスは、50歳の誕生日1915年12月8日にこの交響曲の完成をもって国民的な祝福を受けるなどと想像していただろうか。
シベリウスが残した7曲の作品の中で、最も交響曲として完成されたと評される第5番。2度改訂されているが、はじめの改訂の総譜は残っていない。現在接することができるのは、1915年の初稿版そして1919年に完成した現行版。初稿版の録音、演奏についてはオスモ・ヴァンスカ(Osmo
Vanska)指揮ラハティ交響楽団の録音、そして幸運なことに1999年の同オーケストラ初来日の記念碑的な演奏を耳にした方も多いと思う。私はこの演奏会を御縁としてフィンランドで文化庁の研修の機会をいただくこととなった。自分にとっても一つの節目の公演だった。フィンランドにわたりマエストロ・ヴァンスカのもとで多くのシベリウス作品を勉強することとなったが、この5番の初稿版の楽譜にも接することができた。オリジナル版は4楽章構成。
1. Tempo tranquillo assai
2. Allegro commodo- poco a poco piu stretto 3. Andante mosso
4. Allegro commodo ─ Largamente molto
オリジナル版の第1、第2楽章が現行版の第1楽章。現行版では次のような構成。
1. Tempo molto moderato ─ Allegro moderato (ma poco a poco
stretto) ─ Presto ─ Piu Presto 2. Andante mosso, quasi allegretto
3. Allegro molto
現行版の第1楽章冒頭のホルンのテーマは、オリジナル版では17小節目に調性をかえて現れる。「○○でした」というように次のテーマが現れる前の区切りとして。それが現行版では「この曲は○○なのですよ」というように、冒頭にあいさつのごとく登場する。この入れ替えだけでも、そのあとに現れる木管の切れ切れの呼びかわすモチーフの色合いと意味と歌い方が変わってくる。オリジナル版の第4楽章、現行版の第3楽章の冒頭はほぼ同じ楽譜となっている。異なるのは曲想を示す言葉。オリジナル版は「Allegro
commodo(快速なテンポで、快適に、おちついて)」。現行版は「Allegro molto(とても快速なテンポで)」。これをわずかな差ととらえるか、劇的な変化ととらえるか・・・いずれにしてもメトロノーム表記はスコアにはないため、テンポ設定の判断は演奏者に委ねられる。私自身は全体の構造をシェイプアップさせたための、フィナーレ楽章のテンポの設定の変化と判断している。
終楽章の最後に本日もきこえる管楽器によるオスティナート音型。ゆったりした三拍子のリズムの第2拍目にフルート、オーボエとクラリネットにより奏でられる和音の叫び。これはオリジナル版ではより鮮明に聞こえる。現行版ではこの和音の役割は時に中断させられているが、オリジナル版ではファゴット以外の木管楽器はこの音型に専念させている。この音型は明らかに鳥の鳴き声。そしてその声を取り巻く大気のうねりと広がり。構成のはっきりした絶対音楽の交響曲であるが、この作品にもやはりシベリウスの本質である自然の描写が潜んでいる。描写という積極的な言葉は適切ではないかもしれない。第5番を作曲するころ16羽の白鳥を空に見たシベリウス、また亡くなる直前に空を舞う鶴の姿を見て若き日の己を重ね合わせたシベリウス、1957年9月20日この交響曲第5番がヘルシンキ大学講堂で演奏されていた夜9時15分、作曲家は帰らぬ人となった。
若き日、生きる力を歌い上げた才能は壮年に向かうにつれ、作曲家自身の本質?自然との同化(すべての源がそこにあると悟る能力)?を深め、ほとんど人の手による形式構造の説明を不要とする「わかる」という感覚で聴いている人に風景が見えるのである。
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