<森と湖の詩>

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日立フィルハーモニー管弦楽団第23回定期演奏会曲目解説

 

没後50年を迎えた今年、ジャン・シベリウスという作曲家が世界各地でスポットを浴びている。また同じ北欧人であるノルウェーのエドヴァルド・グリーグも没後100年という記念の年となった。奇しくも北欧の二つの巨木。同年にスポットを浴びてその比較もされることが多いようだ。
シベリウスは91歳の生涯を持つ作曲家である。そして晩年のおよそ30年にわたる沈黙の期間と呼ばれる作曲をしなかった日々のために、何かと憶測されることの多い人でもある。


 シベリウスの交響曲としてのスタートは1892年の「クッレルヴォ」と言えるだろう。はじめ作曲者はこれを交響曲とし、その後タイトルを撤回。現在は「交響詩クッレルヴォ」または、単に「クッレルヴォ」となっている。このクッレルヴォの大成功でフィンランド国内では若き国民的作曲家としての地位が確立。その後1899年に第1番が完成、翌年のパリ万博においてもロベルト・カヤヌス指揮 ヘルシンキ・フィルハーモニー協会によってシベリウスの作品が紹介され一躍世界の作曲家の仲間入りを果たした。シベリウス自身もこのパリへの演奏旅行には副指揮者として同行している。  


 1865年生まれのシベリウスにとって青春時代ともよべる1880年代から90年代にかけてはアイノ夫人との結婚、そしてベルリン、ウィーンでの留学生活と華やかな面がみられるが、作曲者の内面は様々な葛藤に見舞われていた。中欧での音楽体験はもちろんワグナーの洗礼を受け、ブルックナーの交響曲にも接し、この北欧からの若者の筆に影響を与えた。同時にフィンランド人として「カレヴァラ」叙事詩に深く傾倒しカレリア地方へ新婚旅行を足掛かりに旅をして、民族の詩をその語り部の口から直接聞くことができた。その成果が「クッレルヴォ」であり「エン・サガ」「レンミンカイネン」のシリーズである。

「カレリア序曲 作品10」
 この作品は劇音楽「カレリア」として作曲された。カレリア地方というのはフィンランドにとって精神的なよりどころの地ともいうべき大切な土地である。政治的な背景をもって譲渡の歴史を背負ったが、現在は北カレリアと南カレリア地方がフィンランド領として残っている。1893年にヴィープリ州の教育支援のためにヘルシンキのアレクサンダー皇帝大学のヴィープリ学生協会が「宝くじ」を企画した。この祭典のために用意された劇の間の音楽を、前年に「クッレルヴォ」で大成功をおさめたシベリウスが依頼された。彼はルオヴェシで1893年の夏に早速書き始め、ヘルシンキでその後完成させた。1893年11月13日にセウラフオネでその祭典は開催された。劇はカレリア地方の歴史をたどって時代の名場面を再現しているものとなっている。このヴィープリという地は現在ロシアのレニングラード州の都市ヴィヴォルグとなっている。作品は序曲と情景音楽が8曲。しかしこれは後にほとんどが破棄されている。この作品10の序曲と別に3曲を取り出し組曲とした作品11のカレリア組曲が残っていた。1997年にオスモ・ヴァンスカ指揮―ラハティ交響楽団のコンビによる録音でこの情景音楽の完成版が録音されている。補筆にはレジデンス・コンポーザーでもあるフィンランドの代表的な作曲家カレヴィ・アホが当たっている。序曲ではヴィープリ城の風景やカレリアの人々の重い運命、そして組曲の「間奏曲」にも現れるファンファーレが含まれている。


「交響曲第2番 ニ長調 作品43」
 シベリウスが「アイノラ」というヤルヴェンパー郊外の地に終の棲家を見つけるのは1904年。この交響曲第2番を書いた2年後。この大きな引っ越しにはシベリウスのよき理解者であり終生パトロンとして支えた、アクセル・カルペラン男爵(1858-1919)の勧めがあった。そしてアイノ夫人も望んでいたことだった。
27歳で「クッレルヴォ」によって名声を得た若き作曲家はそれ以前の留学生活のころから飲酒癖、洋服への道楽など都会生活に親しむようになっていた。帰国して名声を得て後も仲間との芸術家ライフを堪能。その様子は自らもその仲間であったガッレン・カッレラの絵画によってグロテスクに表現されている。結婚後1993年に最初の娘エヴァが授かり1995年には次女のルートが生まれた。浪費癖は治らないシベリウス、そして作曲に神経質になり静寂を求めた夫のためにアイノ夫人は賢夫人として手腕をふるった。


 フィンランドの政情はロシアの圧力が強まる中、次第に独立という気運が芽生えていた。1899年に後の「フィンランディア」を含む「報道の日のための劇音楽」がかかれたのも、ロシアの検閲が厳しくなってきたことへの集会のためだった。交響曲第1番はまさにその時代の雰囲気を象徴し、愛国的とも感じられる憂いを含む豊かな旋律と闘争的なリズム、ロマン派の形式にのっとった4楽章構成のわかりやすい作品で初演当初から国民に受け入れられた。そしてイタリアのラパッロという海岸の街で書き始めた第2番はその流れを受けた壮大な交響曲の姿を持って完成した。しかし4つの楽章を持つ交響的作品というアイディアをイタリア入りの前に持っていながらそのあとの筆の進みは遅かったようだ。


 1901年のはじめ、ベルリンを経由してイタリアに到着したシベリウス一家。そこは祖国とは異なる南欧独特の気候。冬とはいえ暖かく感じる空気にアイノ夫人はあまり良い印象を持っていない。このイタリア入りの前にベルリンでリストの「ダンテ交響曲」をシベリウスたちは聞いている。この時期の作品に「キリスト」を意識したモチーフが出てくるのも特徴である。そして同時に「ドン・ファン」のテーマにもとらわれていた。交響曲第2番でも第2楽章のテーマはこのドンファンが死を見る場面を、そして中間部の98小節目には「キリスト」という文字がスケッチに書かれている。


 交響曲第2番は1902年3月8日にヘルシンキでシベリウス自身の指揮により初演されている。クッレルヴォの大成功に続く聴衆の熱狂的な拍手に迎えられた。そしてすぐに再演が企画された。

 7曲あるシベリウスの交響曲の中で最も演奏回数の多い交響曲。「なぜこの作品ばかりがもてはやされ、繰り返し来日公演のたびに演奏しなくてはいけないのか」フィンランドのオーケストラ関係者から耳にする言葉である。フィンランド人にとってはむしろ第3番以降の作品、特に第4番、6番、7番という作品にシベリウスらしさを感じるという話を聞く。ではその違いは何か・・・・。最も明確にわかる違いは、作曲の環境の変化。1904年に「アイノラ」へ移住して書かれた交響曲第3番。それ以降この地から作品が生まれている。「アイノラ」での生活は静寂そのもの。トゥースラ湖から2キロの高台にシベリウス一家の家はあった。フィンランド人がこよなく愛する自然に恵まれた土地、季節の変化の中で様々な姿を見せる自然の顔に作曲家は多くのインスピレーションを受けていた。都会生活で疲労した耳も回復し、静寂の中により深遠な宇宙の音を聴くようになっていたのかもしれない。
3番以降の作品は厳選された音の配列と管弦楽法の独自性でほかのどの作曲家とも異なる響きの世界を持つ。それは初期の作品にすでにみられた独自性の洗練された姿だった。フィンランドの国民的叙事詩「カレヴァラ」に魅入られた時代、そして20世紀という時代に世界で起こっていた音楽の大きな変化、それらの中にあり自分の位置を常に模索し内省する日々で書かれていた作品の数々。


 最後の交響曲第7番は1924年に作曲者59歳の時に書かれた。実はこのあとに第8番を書いている。現在はその楽譜は破棄されスケッチしか残っていない。なぜ破棄されたのか、第8番に至る経緯はどのようなものだったのか、なぜ晩年の30年は作品が残されていないのか。すべてのことが長いシベリウスの人生のはじめから理由づけされていたようにも思われる。常に内なる声に耳を傾け厳しい自己批判とともに歩んだ作曲家。この幻となった第8番の交響曲も全体の姿は想像することしかできないが、今年秋には日本シベリウス協会の企画でこのスケッチをもとにした第8番の交響曲についてのレクチャーが開催される。フィンランドの研究者の発表からまたこの近代を生きた作曲家の新しい側面を見ることができるかもしれない。

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