<森と湖の詩>

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日立フィルハーモニー管弦楽団第25回定期演奏会プログラムノート

 限りない広さと奥行きを持つ「空」に続いて、Divertire(楽しませる、心をなごませる)を語源とするDivertimentoと、Tragische(悲劇的な)と副題を持つ交響曲を並べた意図を今更ながら自問している。
 二人の大作曲家の共通項は、時代が大いなるハプスブルグ家の中にあるということ。マーラーの晩年は、およそ650年続いたハプスブルグ家が1918年に崩壊の道を辿る最後の足跡に重なっている。
マーラーが死の床で「モーツァルト」と囁いたことは、アルマ夫人の日記回想録「マーラーの思い出」に描かれている。最後にモーツァルトを求める作曲家の心情は、わずか35年の生涯に溢れた音楽のミューズを求める気持ちであろうか。モーツァルト=音楽。

<ディヴェルティメント へ長調 K.138>
作曲  ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 
(1756年1月27日ザルツブルグ生まれ 1791年12月5日没) 
作曲年 1772年(16歳) ザルツブルグにて

 K.136(125a)、137(125b)、K.138(125c)は「イタリア風交響曲」と評されるいずれも3楽章構成の弦楽四重奏−喜遊曲。しかしその形式的な特徴があいまいで、学者の間でも論議があったようだ。最終的にはこのスタイルの作品はこの3曲しかない特別なものとして扱われている。弦楽器を愛好する人にはおなじみのシリーズの3曲。K.136はニ長調・ト長調(主調の4度上の調)・ニ長調の構成。K.137はすべて変ロ長調。このK.138はヘ長調を主調として、ハ長調(主調の5度上の調)、へ長調と続く。3つの楽章の調性のコントラストが違う性格で描かれていることも面白い。

 彼が3歳の頃、この子は楽才があると、父レオポルトが見抜いてからは旅に明け暮れた日々のモーツァルト。医学者ジョン・オシエー氏によると、モーツァルトの早世は多くの困難な旅による過労と、幼児期のストレスがひとつの原因であるという。この曲を書いた16歳のモーツァルトがどこにいたのか・・・。モーツァルトは幼児期からの旅の中で、しばしば重篤な病状に陥っている。このディヴェルティメントを書き上げた1772年にもザルツブルグで慢性の連鎖球菌性扁桃炎が再発したと記録されている。今の世と比較すると幼い時期から「死」が身近にあった時代を生きていた人にとって、生の認識は強く喜びに満ちたものだ。ほかの多くの作品同様この曲にはとても重病を体験した深刻さはうかがえない。ただ、第2楽章の優雅な美しさと転調にはある種の儚さが感じられる。1771年にザルツブルグ大司教が死去、1772年には前任者とは異なり厳格なコロレード伯爵が大司教に任命され、モーツァルト少年はこの厳しい大司教のもと宮廷音楽家として仕えることとなった。演奏旅行も許されず教会作品や娯楽曲を職務上次々と作曲していた。16歳のモーツァルトはそんな場所にいた。


 神童という冠をかぶったモーツァルト坊やは4歳で父親から音楽の手ほどきを受け、5歳で最初の作品を残し、1762年の1月に故郷ザルツブルグを出立、ミュンヘンの選帝侯マクシミリアン三世の御前演奏を姉ナンネルと共に行っている。その時わずか6歳、そこから旅の音楽人生が始まっている。作曲と演奏と旅。それは100年後の大作曲家、グスタフ・マーラーも同様だった。

<交響曲第6番 悲劇的>
作曲者 グスタフ・マーラー  
(1860年7月7日 カリシュト生まれ 1911年5月18日 ウィーン没) 
作曲年 1903年〜1904年 1906年エッセン初演 1907年ウィーン初演

 

 マーラーの旅人生は職の遍歴でもある。1878年ウィーン音楽院を終了後1883年オルミュッツの王立市民劇場の楽長就任に始まり各地を歴任。カッセルの王立プロシア劇場次席楽長、プラハの王立ドイツ領邦劇場の次席楽長、1886年にはライプツィ市立劇場の次席楽長に就任。この頃交響曲第1番が完成して第2番に着手。そして1888年にブタペストのハンガリー王立歌劇場の監督兼指揮者に就任。1891年にはハンブルク市立劇場首席指揮者のポストを得る。そして1897年にウィーンの宮廷歌劇場楽長の地位を目指す。その前に、この年の2月にハンブルクでカトリックに改宗している。能力があっても当時オーストリア・ハンガリー二重帝国の要職にユダヤ教徒が就くことは不可能だった。こうして1897年にまず楽長として1年任期で契約。この年の10月にウィーン宮廷歌劇場芸術監督に任命され、1907年3月までの10年この職に全力を尽くした。当時交響曲は第3番まで完成されている。
 交響曲第4番の初演で賛否両論を巻き起こした1901年にアルマ・マリア・シントラーと出会い婚約。1902年3月に結婚。11月に長女誕生。交響曲第5番完成。1903年に交響曲第6番に着手。1904年次女誕生。第6交響曲完成。1905年、自作指揮の演奏旅行が増え作品への評価も高まる。1906年第6番をエッセンで初演。第8交響曲にも着手。1907年1月、第6番をウィーンで初演。長女が病没。マーラーも僧帽弁膜症を心臓に持つと診断される。同じ頃、マーラーの監督業に不満を持つ人々により反マーラー運動が起こりついに10月に辞職。そのまま次の契約先のニューヨーク・メトロポリタン歌劇場に旅立つ。第6番に関わる歴史はここまでである。

この作品の演奏に際し指揮者には楽章の順番を決める課題がある。理由を簡単にまとめてみる。

1. 1905年、演奏前にカーント社から出版された第一稿は第2楽章がスケルツォ・第3楽章はアンダンテ
2. 1906年5月にエッセンでマーラーの指揮により世界初演された時には、第2楽章がアンダンテ・第3楽章をスケルツォと入れ替えた(マーラーの考え)
3. 1906年に上記に基づき第2稿が出版。このときにもう一つの問題の第4楽章のハンマーの回数も3回から2回に変更
4. 1907年1月、マーラー指揮によるこの曲のウィーン初演があり、このときにマーラーが楽章の順番を入れ替えて第1稿に戻した!という記録があるという報告が(ここが問題)
5. 1963年国際グスタフ・マーラー協会による全集版(エルヴィン・ラッツ校訂)がカーント社から出版される。上記の報告に基づき第2楽章スケルツォ 第3楽章アンダンテに戻された。
6. 1998年、全集版の新校訂版(カール・ハインツ・フュッセル校訂)が出版。楽章は1963年版と同じ。
7. 2003年、国際マーラー協会が「第2楽章はアンダンテ、第3楽章はスケルツォの順番がマーラーの最終決定である」と発表。上記の全集版のスコアには協会からの「お達し」が挟み込まれている

 ゆえに、指揮者は実際手にしているスコアの楽章順、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテを採用するか、協会の最新のお達しに則り入れ替えるか選択を迫られるのである。スコア上の第2楽章スケルツォは、第1楽章と同じイ短調。曲想も重なる部分が多い。続けて演奏すると、この90分の交響曲の前半を一気に駆け抜けるかのような印象をうける。そして変ホ長調のアンダンテ楽章を経て、その平行調のハ短調か?と思う導入から第4楽章が始まりイ短調に落ち着く。これは「機能和声」に基づく構成を持つ交響曲にとっては、非常に自然な流れである。実際私自身も1991年にこの曲を初めて指揮した時はこのスコアの順番で行った。もっとも当時のスコアは1963年版。

 箇条書きの第4番目、問題個所である。この「マーラーが順番をスケルツォ・アンダンテに戻した!」という報告が実は証拠が少ないという研究に基づき、2003年に件の「お達し」が発行。以後このお達しどおりの順番の演奏も増えている。ポイントは、箇条書き2番目にある、「マーラーが初演の時に入れ替えた」ということ。この理由を解析することがどちらの順番を選択するかの根拠になると思う。

 マーラーは作曲家と指揮者の両方に高度な能力を持っていた。両者の音楽活動は時折真っ向から対立する。歌劇場の監督ともなると、実務的に高い能力を要求される。日々現実的な問題と直面している。オーケストラ楽員、舞台裏方の問題、集客の問題、雇い主との交渉。同時に他人の作品に関して、いかにして作品の本質を舞台に実現できることが可能かという点に心を砕いたマーラー。そのために多くの摩擦を引き起こし敵が多かった人である。
 入れ替えた理由のひとつに、1906年の初演に際し、第1楽章と第2楽章のイ短調がつなぐ連続性に、交響曲としてのバランスの悪さを感じ取ったのではないかと指摘されている。両方の楽想があまりに似ていることが過剰な物言いと感じ、続けて演奏されることを躊躇した理由とされている。ひとつの理性である。また第1楽章と終楽章が、アルマ夫人が「予言」と評しマーラー自身が語ったとされる「未来の悲劇を予見する天才的音楽家の感性の具象化」だとするならば、中間の二つの楽章の役割はその導入と結論を結ぶ大切なステップとなる。その位置と性格付けはマーラーの意図が実現されるために重要なものとなる。


 指揮者としての客観的なマーラーが判断したこと、それは「悲劇」という未来を「描写」ではなく「絶対的なもの」として作品を残すことにしたためではないかと思われる。ペンをおいた瞬間から作品は一人歩きする。当時は自分でタクトを持ちリハーサルを行い現実的な音となりえる。しかし未来においてそれは他者にゆだねられる。自分が他者の作品へ散々手を加え解釈を行ってきた体験を持つマーラーにとって、作品を残してゆくということは、シューベルトのような「告白」を書き綴る少年の感性だけでは済まなかったと思う。実際マーラーの作品のスコアは演奏者への膨大な指示が特徴的である。


 当時交流のあった、Rシュトラウスがこの交響曲の終楽章のハンマーに対して、「最後に向かって音を抑えることは効果がない」と評したことをマーラーは軽蔑しているが、劇場にいながらオペラは書かず、「効果」を作曲においては「劇場的に」使わなかったマーラーの感性と理性は、やはりこの最終決定とされるアンダンテ・スケルツォの順番を採用したのであろうと私は今回判断した。多くの打楽器を用い、舞台袖からのカウベルの響きも用いたこの曲は一見「劇場的」に聞こえ、当時はそのように批評され「多くの打楽器」に対し痛烈な皮肉も語られた。しかしこれはすべて具体的な音の描写ではなく、その効果によってもたらされる精神の描写であることが、マーラーが希望した聞こえ方であろうと思う。


 アルマ夫人との1902年から1911年にわたる結婚生活は、多くの芸術家を巻き込んで時代の舞台上で演じられていたような感がある。アルマ夫人のマーラーへの不満の記述と伝記記録の主観性は自分の正当性を表明したものだとする厳しい研究書もある。しかし夫により「二人の創造者の結婚は不可能ゆえに自分が作曲家の役割を担う。アルマの作曲活動は禁止」と才豊かな女性が「口を封じられた」ことも事実。アルマを限りなく賛美し愛しながらも、あくまで「マーラーに必要な人としてのアルマ」の存在を要求し続けていた。アルマ自身の奔放な魂と創造力は相当に屈折してマーラー自身と他者にぶつかっていったようだ。「アルマを表したテーマ」とされるこの交響曲第1楽章の第2主題に何を描いたかは、後世の我々にとって大きな謎と魅力となる。

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