<森と湖の詩>

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札響名曲シリーズ  Vol. 3 「新田ユリのフィンランド賛歌」

プログラムノート 

SUOMI の国の3つの S

『はじめに』

 Suomi ( Finland )には S を頭文字にする3つの大切な言葉があります。 Sauna (サウナ) Sibelius (シベリウス)  そして Sisu (シス) 。最後の Sisu という言葉は、「精神力、魂」などの意味があります。この3つの S は紛れもなくフィンランド魂を表しています。季節を問わず、週に2,3度は サウナ を利用する国民。特に夏になると自分のコテージ( Kesamokki といいます)に一月以上も暮らす人が多い国、そのコテージは国内に 80 万個もあると言われる湖のほとりに建ちます。そして必ず庭に サウナ 小屋又はコテージの中に サウナ があります。 サウナ は様々なタイプがありますが、木造の薄暗い小屋の中で石を焼いてそれに水をかけながら蒸気を出し、汗をかき、そのまま小道を通って湖へ飛び込む!というフィンランドの風物詩の光景、これが一番伝統的で一般的のようです。私も経験者です。それは本当に気持ちの良い、爽快なものでした。

 2000 年の 10 月から 1 年間の文化庁在外研修を機会にフィンランドと日本を行き来する音楽生活が始まりました。今日は自然に恵まれた神秘の北国、この北海道とフィンランドの大地を思い浮かべながら Suomi の国の音楽を楽しんでください。

<序曲 スオメンリンナ> ウーノ クラミ( 1900 〜 1961 )作曲 

 スオメンリンナとはヘルシンキ湾に浮かぶ小さな島々のこと。これは 18 世紀にヘルシンキを守るために要塞化されました。この作品は 1940 年に作曲され、翌 1941 年に初演されていますが、第二次世界大戦の中ドイツでこのスコアが紛失し、クラミは残しておいたスケッチから再び書き直しました。

 1940 年クラミはこの島々を訪れインスピレーションを得たそうです。フィンランドは 1809 年から 1917 年まではロシアに、それ以前は長い間スウェーデンに支配されてきました。この作品は今再び世界が戦火にまみれている状況の中、愛国心に充ちたメロディとマーチのリズムでまさに3大 S の一つ、 Sisu が描かれています。クラミは 1900 年 9 月 20 日にヴィロラハティという小さな街で生まれました。幼い頃父を、また 16 歳で母を亡くしています。 15 歳でクラミはヘルシンキ音楽学校(現在のシベリウスアカデミー)に作曲を勉強するために入学しました。 1924 年から 1925 年にパリに 1928 年から 1929 年にウィーンに留学してからはクラミの作風はストラヴィンスキー、ラヴェルという 20 世紀を代表する作曲家の影響を多く受けたものになりました。オーケストレーションが色彩豊かで豪壮に鳴り響く作品が多いのもうなずけます。

 「 Merikuvia (海の絵)」又「カレヴァラ組曲」などは代表的作品です。弦楽合奏の作品も多く、私も今年9月に「ヘンデルへのオマージュ」という作品をラハティで演奏してきました。スオメンリンナ序曲は研修中初めてラハティ響でコンサートの機会を得た時の作品でもあります。

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『フィンランドとシベリウス』

 Sibelius Suomi の国の人々にとってどのくらい大切な作曲家なのでしょう。それはシベリウスの名前を持つ通りがあり、シベリウス公園があり、シベリウス博物館が昔の首都トゥルクと誕生の地ハメーンリンナにあり、ヘルシンキ郊外ヤルヴェンパーにはアイノラの里という生涯過ごした家がそのまま保存され、目に見える様々な形でその功績が残されています。しかし何より演奏会において又記念行事において、最後に演奏される「フィンランディア」、これを聴く国民の目の輝き背筋を正して聴く姿勢、ほとんど国歌に順ずるのではと感じるほど愛されているこの作品の演奏に出会うと Sisu が呼び覚まされる Sibelius なのだと感じるのです。

 シベリウスは 1865 年 12 月 8 日にハメーンリンナで生まれました。父親は医者として街の信用を集めていましたが後にシベリウス自身にも現れる、浪費家で派手好きな性格が家計を苦しめていたようです。そんな父はシベリウスが2歳半の時に亡くなってしまいます。母は幼い子ども三人を連れて実家に身を寄せます。作曲家シベリウスは二番目の子供、 Johan Christian Julius Sibelius と名づけられました。これはスウェーデン風の名前で普段は Janne (ヤンネ)と愛称で呼ばれていました。フィンランドでは以前のスウェーデン統治の影響で上流階級やスウェーデンに近い西海岸に面する地域ではスウェーデン語が話されています。(現在は国民の6lがスウェーデン語を母国語としています)しかし彼が学校に通うようになると、フィンランド語と文化を守る運動で新設されたフィンランド・ノルマル学校に入学したためバイリンガルの生活が始まりました。もともとシベリウスにとって母国語はスウェーデン語だったわけです。現在 Jean Sibelius (ジャン シベリウス)と表記されますが、これは船乗りだった彼の叔父がフランス風にジャンと名乗っていたことに影響を受けて自分で改名したようです。

<ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47>

 1892 年にアイノと結婚したシベリウスはそれまでのヘルシンキ住まいを止め、 1904 年ヤルヴェンパーに山小屋風の家を建てました。ここに家族で移り住み 都会の喧騒から離れ、友人と飲み歩く生活を捨て、この建物を「アイノラ」と名づけ生涯住むこととなります。この年に 1902 年から 1904 年初めにかけ書かれたヴァイオリン協奏曲が初演されます。これは初稿版で大変に難しく又シベリウス自身も構成などに不満を持ったようで 1905 年には現在の形に改定されています。決定稿の演奏はベルリンで初演されています。シベリウスは若い頃ヴァイオリニストを志して勉強していただけにこの作品は華やかな演奏効果を備えています。しかし3楽章形式の交響曲を思わせる作品で当初はその独自性のためなかなか理解されなかったようです。第一楽章は静けさの中からむせび泣くようなヴァイオリンのソロから始まります。第二楽章はたおやかな旋律と大地を思わせる勇壮なオーケストラのバランスが絶妙です。強靭なリズムで始まる第三楽章はその勢いが最後まで途切れることなく持続します。

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『カレリアとカレヴァラ』

 カレリアはカレリア地方という地名、カレヴァラはこの国に伝わる大叙事詩、少々紛らわしい固有名詞かもしれません。

<カレリア組曲 作品 11

 次の作品、カレリア組曲は 1893 年にヴィープリ地区の教育援助の祭典に書かれた情景音楽の中から編纂されました。カレリア地方は現在その大半がロシア領となっています。 13 世紀までは独立の地域でしたが、その後スウェーデンとロシア間の紛争に巻き込まれ分割されてしまったのです。ラドガ湖周辺が東カレリア、南カレリア、白海を東端とする奥カレリア、そして現在フィンランド領として残るロシア国境の北部が北カレリア地方です。 1940 年まではヴィープリという南カレリアの街もフィンランド領でした。 1892 年にシベリウス夫妻は南北カレリア地方に新婚旅行にでかけています。若夫婦らしい無鉄砲なものだったようで、湖を小型ピアノを乗せて蒸気船で渡ったり野宿をしたり、又途中でジャンは吟遊詩人に会うためにアイノをクオピオという街に行かせ、一人で農村めぐりもしました。 1828 年にエリアス・リョンロートという若い医学生が同じようにカレリアの地を一人で巡りカレヴァラを採取したように彼も壮大な夢を持ち各地を歩いたようです。その翌年にこの作品は生まれています。

 組曲のもととなった「カレリア」は全部で8つの部分からなる作品でしたが 1940 年代にシベリウス自身の手で大部分破棄されています。組曲の1曲目はリトアニアの公爵が税の徴収に出かける情景、2曲目はヴィープリ城に佇む統治者を吟遊詩人が追想しているバラード、そして3曲目は城に愛国者が入場する光景を描いた行進曲です。

<レンミンカイネン組曲―4つの伝説 作品 22 より トゥオネラの白鳥 レンミンカイネンの帰郷>

 最後の曲はカレヴァラに基づく作品です。レンミンカイネンというのは若者の名前、彼は美男子で勇者でしかし無鉄砲で少々軽はずみなところのある血気盛んな若者です。キュッリッキという花嫁を得ながら、再びポホヨラ(北方)に向けレンミンカイネンは新たに若い花嫁を獲得しに出かけるのです。ポホヨラの女主人ロウヒの策略で、トゥオニの国(死の国)の白鳥を撃てば自分の娘を渡すという言葉を信じ、トゥオニに流れる黒い川にやってきたレンミンカイネンは待ち伏せをしていた男に撃たれ切り刻まれ川に投げ捨てられてしまいます。そこへ息子を探す母がやってきて呪文とともに彼の肉体を集め人間の形に復元するのです。二人は様々な思いを残しながら故郷へと帰っていく―という場面を描いています。

 カレヴァラというフィンランドに古くから伝わる叙事詩に影響を受けた芸術家は数多くいます。絵画ではアクセリ・ガッレン―カッレラというシベリウスと同年生まれの画家がカレヴァラを題材に数多く力強い作品を残しています。シベリウスもこのレンミンカイネンの前に、彼の出世作「交響詩クッレルヴォ」(クッレルヴォ交響曲)を 1992 年に発表しています。これは彼の地位をフィンランドで確かなものにした作品でしたが、同時にその後、シベリウス自身作曲の方向に悩むきっかけともなりました。その後彼はワーグナーに触発され、オペラ「船の建造―仮題」の構想を練ります。バイロイト音楽祭にも出かけて行きましたが自分とは異なる世界だと実感しオペラの作曲は断念したようです。後年マーラーとも面会の機会を持ったシベリウスでしたが、全く相容れない二人であったそうです。しかしブルックナーには深い敬愛と尊敬を覚えたという記述があります。これはシベリウスの音楽を紐解く一つのヒントになるかもしれません。

 レンミンカイネン組曲は副題に Legende (伝説)とあり、4つの小品からできています。「レンミンカイネンと島の乙女たち」「トゥオネラの白鳥」「トゥオネラのレンミンカイネン」「レンミンカイネンの帰郷」この4つの曲のうち、本日お届けする2曲は評判も良く早くから出版もされていましたが、残る2曲に対しては厳しい批評が下り、シベリウスがしばらく作品を表に出さなかったという経緯があります。「トゥオネラの白鳥」は前述のオペラに予定されていた作品に手を加えました。 1895 年に作品は完成しています。

 シベリウスは 1957 年 9 月 20 日に亡くなるまでフィンランドの国民的作曲家、英雄でした。しかし 1924 年に第 7 番の交響曲を書き上げてから次の 8 番を世界中が待つ中、 1940 年代にそのスコアを燃やしてしまったと伝えられています。現存の最後の作品は 1946 年作のものと言われています。それ以後亡くなるまで作品を世に出すことはありませんでした。晩年には謎を残した北欧の巨匠―自己への厳しさと格闘しながら 静かなアイノラの家で黙々と作品を生み出し、一方飲酒、葉巻、洋服、に相当のお金をかけた生活を続け、妻アイノはそれをじっと見守り支えていったのです。 2001 年夏にアイノラの里を私は訪ねました。アイノが大切に育てていたりんごの木の傍らにシベリウスの墓がありました。その静けさは今も変わっていません。

(2002.10.30 掲載) 

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