アンサンブル・フラン 2016ウィンターコンサート プログラムノート

 アンサンブル・フラン 2016ウィンターコンサート プログラムノート

 

20世紀の扉から

 

ジェラルド・ラファエル・フィンジがロンドンに生まれたのは、190171420世紀を迎えた地球はちょうど1年前のこの季節パリで万博を開催していた。パリに世界の文化が集まり、それを見聞きした多くの芸術家が異文化から啓発を受け新たな世紀を歩み始めていた頃。

この新しい時代にイタリア系の父、ドイツ系の母のもと生を受けたフィンジだが、彼が7歳の時に父が他界している。そして一家は英国ノースヨークシャーにある、ハロゲイトに移った。音楽への道は1914にこの地でアーネスト・ファーラーの下で始まった。しかし時は第1時世界大戦。ファーラーが戦地に召集され戦死した報でフィンジは実の兄弟と恩師を失った悲しみを同時期に味わうことになった。こののちフィンジは1918年から厳格なエドワード・ベアストウの下で勉強を続け、1922には英国グロスターシャー州のペインスウィックに引っ越し本格的な作曲生活が始まった。まず“歌曲集”と“合唱曲”が生まれている。フィンジの旋律は英国詩のデリケートな発音を決して邪魔をせず、美しい響きのラインを大切にしている。それは本日演奏する「ロマンス」にもつながる。1926にロンドンに戻ってからは著名な理論家R.O.モリスに対位法を習っている。「ロマンス」作品111928に作曲された。静寂から始まる優しい旋律と、どこか憂いを帯びた響きは27歳のフィンジが抱える悲しみを反映しているようにも聞こえる。またこの時期にグスタフ・ホルストやR.ヴォーン=ウィリアムスとも出会った。そしてこのヴォーン=ウィリアムスはフィンジのヴァイオリン協奏曲を1928に指揮している。王立音楽アカデミーでの教職193033はヴォーン=ウィリアムスの推薦によるものだった。英国のほかの作曲家の影響(特にヴォーン=ウィリアムス)を受けながら、フィンジは1956にオックスフォードで亡くなるまで自身の作曲だけではなくほかの作曲家の研究と出版なども続けた。作曲家としての代表作はおそらく1949のクラリネット協奏曲、そして病の宣告を受けた1951年から亡くなる前年の1955年にかけて作曲されたチェロ協奏曲もフィンジの音楽性が凝縮された大曲だ。

 

昔から英国と文化的な交流が盛んなフィンランドは、1917にロシアから独立してはじめてフィンランドという国家として歩み始めた。その前年1916617にエイナル・エングルンドはスウェーデンのゴトランドで生まれた。エングルンドもシベリウスと同様スウェーデン系のフィンランド人。1916年~1999年という生涯のおよそ半分の地点までシベリウスとともにフィンランドの地にいたことになる。エングルンドが1941シベリウス音楽院を卒業して後にタングルウッド音楽センターへ留学したのはシベリウスの推薦だった。そこでコープランドに師事した。

エングルンドの幼少時の資料が少ない。無理もない。独立後の内戦状態のフィンランドの中で育った。そしてエングルンド自身も戦地に身を置いた。1917年の独立宣言からまもなく100年を迎えるフィンランドだが、この独立への歩みの中には第一次世界大戦でロシアがドイツに敗北した背景がある。1809年からロシアの自治大公国としてあったフィンランドは、19世紀の終わりから次第に強まるロシア化政策に苦しみ始めていた。20世紀に入り世界が戦火にまみれる中次第にロシアの力が弱まり独立へと踏み出せた。しかしロシアから離れたことで食糧難・産業の低迷が一気に押し寄せフィンランドの状況は悪化。赤衛隊・白衛隊に分かれての内戦が始まり国民が二分化して顔見知り同士の闘いとなってしまった。エングルンドが生まれ育ったのはそのような時期のフィンランド。そして1939、ソ連が宣戦布告なしにフィンランドの国境を越え1130日に攻め入ったところから「冬戦争」が始まった。19403に講和条約調印で一旦は戦火が収まるも19416ヒトラーの偽りの報道をきっかけに再びソ連との戦争が始まってしまった。これを「継続戦争」と呼んでいる。エングルンドはこの戦争の時に、3か所に派遣され実戦に参加している。エングルンドの作曲活動にとってこの戦争体験は大きな意味がある。1946年作曲(47年初演)の「交響曲第1番“sotasinfonia-戦争交響曲”」はフィンランドの音楽界に大きな石を投げ込んだ。「新しい時代を告げた作品」という評価とともに、シベリウスという大樹が育てシベリウスの沈黙とともに沈滞していたフィンランドの交響曲が蘇った作品と認識された。続く「交響曲第2番クロウタドリ交響曲」1947も第1番と同様に戦争を背景に持ち、クロウタドリ(黒ツグミ)によって戦争砲火のあとの静寂が歌われている。エングルンドは長命の作曲活動の中、反戦のスローガンを明確に掲げていた。エングルンドはピアニストとしても名前が知られていた。自身のピアノで初演しているピアノ協奏曲第1番は1955に生まれている。ところが1960年代には新たな管弦楽作品がほとんど生まれていない、エングルンドには沈黙の10年があった。“自分の時代が来るのを待つ”時間。シベリウスとある種同じ姿勢を感じる。世の中の新たな潮流に対して、「自分はその流れに取り込まれない」と、一線を画していた。新たなものを認めつつも、己の表現の道はそこ(モダニズム)にはないと結論しエングルンドは10年待った。その間シベリウス音楽院で教鞭をとり、音楽批評家として執筆活動などに力を注いでいた。またペンネームを使用して(Marcus Eje)軽音楽の分野でも腕を振るっていた。そしてエングルンドの言葉で「神が自分に好意を持ってくださるとき」がやってきて生まれたのが1971の「交響曲第3番‐バルバロッサ」。続いて本日演奏する「交響曲第4番ノスタルジア」は1976に作曲された。ちょうど60歳を迎えた年。エングルンドの写真によると自室のピアノの横にショスタコーヴィチのポスターが飾られている。新古典派エングルンドが親しみをもっていたのは、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、バルトークなど様式が明確な作曲家たち。この「第4番」は弦楽アンサンブルと打楽器アンサンブルという珍しい編成になっているが、“偉大なる作曲家の思い出に”と捧げられているとおり、音楽的要素は明らかに19758月に他界したショスタコーヴィチを背景としている。付点リズム、ユニゾンの多用、跳躍音型、打楽器の使用法などショスタコーヴィチの交響曲に見られる語法が点在。第1楽章は明らかにショスタコーヴィチの交響曲第5番を思わせる響きが弦楽器だけで奏でられる。

本日の公演の一つの目玉である打楽器とのアンサンブルは第2楽章から始まる。時を告げる音の中で、様々な音の言葉の切れ端が並んでゆく。そしてもう一点注目したいのが、第3楽章で聞こえてくるシベリウスの「タピオラ」の冒頭テーマ。こちらも1957年に亡くなったシベリウスへの「思い出」を密かに描いていると感じる。晩年30年の沈黙を持つシベリウスと、10年間時代の流れから離れたエングルンドにはどこか作曲の哲学において共通するものを感じる。

エングルンドはこの後1977に「交響曲第5番-フィンランド風」、1984「交響曲第6番-格言」、1988「交響曲第7番」と、晩年にむけて盛んな作曲活動が続く。1991にクラリネット協奏曲を遺しこれが最後の大きな作品となった。1999627日に故郷のゴドランドで永遠の眠りについた。

 

 20世紀の扉をあけて始まった本日の公演は、現在も存命の作曲家が最後に登場する。19321216日にモスクワに生まれたシチェドリンは音楽一家に育ち、13歳から18歳をモスクワ聖歌隊学校で学んだ。後にモスクワ音楽院にて当時ギレリスと並ぶ名ピアニストとして知られていた、ヤコブ・フリエールに学んだ。作曲はアレクサンドロヴィチ・シャポーリンに師事している。シチェドリンは2014年に受けたインタビューの中で、ピアノの師、フリエールについて絶賛している。「国際コンクールではギレリスとフリエールが交互に優勝を争っていた。手を壊して演奏活動から離れたフリエールに師事できたことを大変な名誉だった」と振り返っている。そのシチェドリン自身もピアノの名手だった。

 シチェドリンという作曲家をご存じの方は、おそらくほとんどが今回取り上げる「カルメン組曲」を導入としている。そして世界的バレリーナ、マイヤ・プリセツカヤと1958年に結婚し昨年201552日にプリセツカヤが亡くなるまで伴侶であったことも知られている。

伴侶であったプリセツカヤの存在がこの「カルメン組曲」を書かせることとなった。1967年当時ボリショイ劇場のプリマであったプリセツカヤはビゼーの「カルメン」をベースとした新たなバレエ音楽を求めていた。ビゼーの作品を編曲するにあたり、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアンという当代随一の作曲家二人に続けて依頼を断られた。ハチャトゥリアンの「君の夫に作ってもらえ、彼は天才だ」という薦めがあり、夫君に白羽の矢が立った。シチェドリンはすでにバレエ「せむしの仔馬」(1955)、歌劇「愛だけでなく」(1961)などで舞台音楽の分野で知られていた。現在までのところシチェドリンの作曲活動は非常に多岐にわたっている。どの分野も満遍なく作品を遺しているといっても良い。作風もロシアの民謡をベースとしたものから前衛音楽まで幅広い。そのことについても前出のインタビューの折に触れている。「プロの作曲家というものは、モーツァルトやハイドン、ベートーヴェンのようにあらゆるジャンルの音楽を作らねばいけない」。

今回の「カルメン組曲」はビゼーを元とした編曲作品だが、弦楽アンサンブル+打楽器アンサンブルという限定された編成を駆使し、実にユニークな響きで全曲が構成されている。原曲の作風を損なうことなく、バレエ曲としてリズムを強調し、登場人物の性格を振付の中に反映させるべく時には誇張した音楽表現を使用しているが、原曲を貶めてはいない。13曲の一覧は別所にあるとおりで、カルメンの曲の中に、アルルの女から2曲を挿入。音程を作ることが難しい楽器にあえて旋律に加わってもらうことで得る効果は、その一音だけで芝居で言う空気が一変するという効果をもたらす。今回もその効果は随所にみられる。そのセンスは卓越している。

 

シチェドリンはそのような自身の作風について、若いころの実践的な音楽の学びが原因だとしている。小遣い稼ぎに様々なオーケストラの楽器をマスターし、劇場などで奏者の代奏をする経験があったようだ。その経験から楽器の特色を会得し実用的な音楽における効果を現場で学んだ。そしてあとは「ほとんど本能的、直観で作曲をしている」という。そんなシチェドリンに対して指揮者マリス・ヤンソンスは「彼は素晴らしい耳を持っている。各楽器の可能性を熟知している」と評している。1983年にはドイツ芸術アカデミー名誉会員、1984年レーニン賞受賞、1989年ベルリン芸術アカデミー会員、1993年ショスタコーヴィチ賞受賞等々祖国だけではなくその活動は広く国際的に認められている作曲家だ。今年84歳となるシチェドリン。近年の作風は調性の回帰、親しみやすい旋律の断片の接続、ロシアの伝統音楽使用などがみられる。いわゆる現代音楽という時代について、そのあり方も時代をそう定義することも良し、としていなかったシチェドリンは語っている。「人間の感情や人間の耳は、100200年前と同じだよ、それは残念なことかい?」

 

20世紀の扉は開けっ放し。21世紀の扉も開いて自由に行き来しながら、この先へと音の旅は続くことを願う。(了)

 

<無断転記ご遠慮ください>
[2017年8月16日 16:32]

森と湖の詩日記
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