アイノラ交響楽団第12回定期演奏会コラム

 アイノラ交響楽団第12回定期演奏会 コラム

 

 

 クッレルヴォ考察

 

クッレルヴォは正直な男であった。少年であった。赤子であった。だから、あのような行動に出た。

直情的、猪突猛進、自分の行動半径狭く、己の力を信じ、それのみ頼りに生き抜いていった。不器用で、加減を知らず、そしてプライド高い男であった。

 

 さわさわと弦楽器にゆられて登場した1楽章は、格好良い。大河ドラマ「クッレルヴォ」の始まりである。テレビ画面が浮かぶ。荒野をイメージしたCGから何かが浮かび上がってくる、遠くに見える未来のクッレルヴォの姿・・そんな始まりではないだろうか・・。

しかし、クッレルヴォだけの話では、あっという間にドラマは終わってしまう。クッレルヴォの親の世代、ウンタモ、カレルボという仲の悪い兄弟のいきさつから、ドラマは始まるだろう。この仲の悪さは常軌を逸している。お互いの存在を完全に否定するほどのいがみ合いというのは、いったいどのような心理から生まれるのだろう。一種の自己愛の変形だろうか。他者を認められないというのは、現実的にみても非常に不幸な状態だと思う。特に近年地球上にそれを強く思う。

 

 クッレルヴォの話は、カレヴァラ第31章から始まる。第36章までの一連の話は、実は一連ではないそうだ。2007年のクッレルヴォで大変にお世話になった、故小泉保先生の著書によると、オリジナルの話は、カレヴァラ第31章から第33章まで。そして、後半第34章から第36章は、その詩を採集したときには別の登場人物の話であったとのこと。カレヴァラ編纂者のエリアス・リョンロートは、ほかの部分でもそれを行っているが、全体の話の筋をまとめるために、オリジナルの話を改変している。クッレルヴォもそうであるらしい。

この第1楽章は、カレヴァラ第31章の話。親のいがみあいで不幸な環境におかれたクッレルヴォは、赤子の頃から親の仇を撃つかのような力を発揮していた。そんな恐ろしい子供をそばに置くわけにはいかないということで、鍛冶屋イルマリネンに預けた話が第2楽章。カレヴァラの第32章、第33章である。つかの間の穏やかな日々と思いきや、その妻であるポホヨラの娘がクッレルヴォに意地悪をしかけたので、なんと殺されてしまった!クッレルヴォの怒りの理由は「親の形見を傷つけられた」だった。お弁当のパンに石を入れたポホヨラの娘は、それがどのようなことを引き起こすのか考えずに、軽いいたずら心であったと思う。その石により、クッレルヴォが大切にしていた父の形見のナイフが折れてしまった。その怒りは理解できる。だからと言って狼をしかけて襲わせるのはどうかと思うが・・・。

ささいなこと、ほんの出来心で大変な事態を巻き起こしてしまうことも近年現実に多発。

 オリジナルクッレルヴォの話は、ここまで。すでに天涯孤独の身のクッレルヴォは、この哀しい出来事のあと、どこへともなく去って行った・・・・それが元の話ということだ。

 

 しかし、リョンロートは、話を大きくした。別の登場人物が引き起こす次なる事件を用いて、クッレルヴォにもう一つの役割を与えた。第3楽章は、カレヴァラ第34章、第35章。

男声合唱により語らせているのは、客観的なストーリー。この楽章のみ登場する二人のソリストは、クッレルヴォと、その妹(ふたりの乙女も兼任)。この3人の乙女については、実は諸説ある。クッレルヴォをおそらく世界でもっとも多く歌っていらっしゃるフィンランドのバリトン歌手、ヨルマ・ヒュンニネン氏によると、この3人は同一人物で、クッレルヴォの誘い方が次第に変化して、最後にはクッレルヴォの想いに応えるという解説をされたそうだ。これはソリストの駒ヶ嶺さんが2007年にこの曲を歌われるときヒュンニネン氏にレッスンを受けられたおりに教えられたことと伺った。テキストを見る限りそれが正しいという証拠はなく、かといって違うという確証もない。橇をすすめ3人の乙女と出会っているので、通常は違う二人の娘に手ひどくふられたクッレルヴォが、三人目にその経験をもとに金銀財宝を見せて誘いの手段を変えたとみられている。私自身もそのように思っていた。しかし、同じ女性に言い方をかえてついに・・・という話も十分に成立する。しかし、クッレルヴォの橇はぐるぐると周っていたことになってしまうが・・・。

 カレヴァラのテキストの困ったところは、5拍子の韻を成立させるために、文脈とあわない言葉や固有名詞が入れられている。繰り返しの言葉も一つの物事を様々な表現の仕方で表す。そのため、主語や目的語が時折迷子になる。

この第3楽章の終わりにクッレルヴォが自らの行いを激しく悔やむ場面。オリジナルではもう一人の登場人物の出来事は、この一つの章だけで話が終わっているそうだ。

リョンロートが創作したのはその後。ウンタモにより滅ぼされていたはずのクッレルヴォの両親は生きていた!という話に変更され、(もっとも、そうでなくては第3楽章で妹が現れるわけもなく)話が大きく広がっている。第31章ではクッレルヴォの父親カレルボがウンタモにより倒され、カレルボの身重の妻は、ウンタモ家に連れられそこでクッレルヴォを生んでいる。その後の母のことは触れられておらず、ただ、クッレルヴォによって「父の無念を晴らしてやる、母の涙を償ってやる」と語られている。母もウンタモの家で重労働をさせられていたようだ。とても冷徹な読み方をすると、この時点でクッレルヴォの妹が存在するはずはないということがわかる。

しかし、第4楽章に描かれている世界は、一度両親のもとに戻ったクッレルヴォだったが、ウンタモに戦をしかけ恨みをはらすというもの。その戦の中で両親も他界し、第5楽章に進む前には、今度こそ本当の天涯孤独になっている。この第4楽章のクッレルヴォの出征の音楽も、なかなか面白い。復讐のための出奔のはずだが、非常にのどかに聞こえる音が書かれている。地を鳴らし駆け抜け、木々を倒し攻め込み、そのような実感を持った闘い。現代のようなスイッチ一つで相手を滅ぼす、痛みを知らぬ戦いとは異なる。晴れて両親の恨みを晴らしたクッレルヴォの心は、今やひたすらに悲しみでおおわれている。     

運命の悪戯で妹を失ったことへの自責の念を持ちながら、この復讐を果たした話になっているため、第5楽章で再び、第3楽章の最後の歌の心境に演奏者は戻る必要がある。自責の念は第3楽章では強い嘆き、怒りとして現れ、第5楽章では後悔と悲しみと、そして覚悟という形で音楽が進んでゆく。亡霊のように男声合唱が語るクッレルヴォの決まり文句の語りだしは見事だと思う。そして、覚悟という部分にある音楽が、まさに「赤穂浪士」。

2007年にこの曲をはじめて手掛けた折、オーケストラのメンバーとともに「赤穂浪士」という言葉をよく語っていた。揃いの陣羽織に雪景色というものが、第5楽章のコーラスの後につづくオーケストラのみのゆったりとした歩みの音楽から浮かんでくる。クッレルヴォは自らの命をたくす刀と会話をしている。罪深い自分の肉を食べる気持ちがあるか・・と、刀に問うている。少々血なまぐさく申し訳ないが、日本にあった切腹という風習。時代劇で日本人は無意識のうちにその光景を記憶していることと思う。刃に視線を向ける白装束の武士。心境はクッレルヴォの場合も同じであろう。この音楽、そして男声合唱が語る情景から、何やら日本人である我々はこのクッレルヴォを非常に深く理解してしまうのである。カレヴァラという民族叙事詩なるものの全容を知らずとも、フィンランドのこの偉大なる文学の位置づけを知らずとも、クッレルヴォはこの日本という国で大いに理解される可能性のある作品だと思う。

本日でアイノラ交響楽団と私は、3度目のクッレルヴォの演奏に取り組むことになる。2007年の初挑戦は、オール日本人キャスト。そしてつい先日演奏した2度目は、男声合唱の半分がフィンランド人。3度目の本日は、再びオール日本人で取り組む。

人生への様々な教訓も含まれながら、自己コントロールの効かない暴れ者、正直でまっすぐな若者クッレルヴォが描かれたカレヴァラの世界を、音で描きつくしたい。

青い靴下・・今日も見られるだろうか・・・。                 新田ユリ

<無断転記ご遠慮ください>
[2017年8月16日 16:42]

森と湖の詩日記
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