Sinfonia Ainola #13 konsertti

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アイノラ交響楽団第13回定期演奏会、お陰様で無事に終演しました。たくさんのお客様にご来場いただけました。本当にありがとうございました。
14時開演、終演は16時を過ぎてしまいました。初稿版~最終稿版 を2つの作品において作曲家の推敲の軌跡をたどるコンサートでした。お楽しみいただけましたら幸いです。

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この季節に杉並公会堂でシベリウス・・という毎年の恒例になって何年経ちましたか・・・1年に1度の演奏会というペースのアイノラ響は、すでに干支一回りを過ぎ次の一巡が始まっています。

プログラムむコラムにも書きましたが、人のうごきはこの12年、かなりありました。それでも変わらぬメンバーもおり、セクションによってはまったく12年変わらないところもあり・・・本当にそれぞれです。

変わらない事・・・それはメンバーが・シベリウスを好きである、・シベリウスの作品を演奏したい ・シベリウスを通して知ったフィンランド、北欧に興味がある ・作品を丁寧に演奏したい ・時間をかけたリハーサルの中で、きちんと皆で音を作り上げてゆきたい このようなことが変化なく、いえ変化はありますが変わらぬアイノラ響の魂の部分なのではないかと思っています。特別な名手がそろっている必要はなく、集う人がそれぞれに自分の音に責任を持ち、人の音に耳を傾け、寄り添い、主張し、作品の本質に心を寄せること、その時間の積み重ねでびっくりするほど魅力的な音が生まれるということを、私は研修地であったラハティ響でみてきました。現在のラハティ響はその積み重ねで成長して一つの強固な土台を持ち、そこからさらに変化を続けています。時間をかけた蓄積の土台は崩れにくいもの・・・・・

今回のコンセプトが実現できると決まった時から、まずは楽譜との格闘が始まりました。
もちろん、シベリウスのご遺族が組織する機関からまずは許可をとり、そこからプログラミングが始まりました。交響曲第5番の2つの版を同じ演奏会で取り上げる・・・・ということは、クッレルヴォを手掛けていた頃から団員の間で口々に希望期待を持って語られていました。許可をとりつけて、一気にその実現が決定。そしてほかの選曲に入りました。「春の歌」の2つの版についても、実は以前に演奏済みなのですが、あらためて許可をとり
今回は、以前取り組んだ逆のパターンを選択。
本プログラムに初稿をもってきて、アンコールで最終稿。10年前の第3回演奏会の時は、アンコールに初稿版を取り上げました。

2つの作品の初稿、最終稿 そしてもうひとつ魅力的な小品「吟遊詩人」を。
この作品は特別な物語は背景にありません。しかし。、ハープを中心として奏でられる和声が運ぶ物語、音のない空間が語る物語・・・その繊細さ究極の美しさを持つ作品と思っています。ヴィオラセクションに旋律の主役が与えられ、デリケートな語り口の統一感などが求められる非常に難しい作品だと思っています。ラハティ響もこの曲を取り上げる時は、ヴィオラセクションはコンサートぎりぎりまで分奏をしていました。

「春の歌」初稿

このニ長調の始まり方は、最終稿のヘ長調と様子がかなり異なります。その変化はちょうど交響曲の改訂と似たところもあります。初稿春の歌は、弦楽器のユニゾンが多くなっています。そこにはデリケートな強弱の変化と歌いまわしのラインが描かれていて、素朴な音楽の要素が繰り返し現れます。最終稿よりも和声は斬新で、クッレルヴォにみられる民族的なカラーも含まれます。
ホルンによる最後のDの音にそなえて、アイノラ響のホルンチームは「●●ビタン・ハイD」なるものを用意したようです。効能も注意書きもオリジナル!

「交響曲第5番」初稿

秋からリハーサルを積み重ねていてこの公演のステージで感じたことは、「この魅力あふれる初稿を遺してほしかった」ということと、これだけの時間この作品に接していられたことへの感謝でした。
正直のところ初稿の方に強く魅力を感じます。それはVn協奏曲の時も同様で、シベリウスの作曲思考の原石がある状態、その磨けば光る!と感じる素材が溢れているところに惹かれますね。
確かに冗長な部分は多い、でもその道のりはその先の表現に必要な時間である・・・と、今回は感じました。

第1楽章の唐突に思われる終止も、ちゃんと和声の階段を経ています。冒頭の木管による「ご挨拶フレーズ」は、最終稿とはまったく性格が異なりますが、シベリウスらしい!と感じるものです。おなじみのトランペットの旋律は弦楽器に割り当てられ、全体に金管セクションの活躍が減っているのが初稿版。
第2楽章は素材としては最終稿と近いものが並びますが、×2の長さを持ちます。フレーズも異なり、この楽章は鬼門でした。最終稿のフレーズ感を一度手放して楽譜を見ていないと、うっかり乗り遅れるということもリハーサルではありましたね。Tuttiで突進する最後も、旋律のラインから判断して、最終稿よりもテンポを落として演奏しています。速度指示も最終稿とは異なります。そしてこの終わり方も、「突然」という印象。でもこれも、クッレルヴォやエン・サガのように作品番号の若いものに通じる、朴訥さが魅力です。

第3楽章は、これも素材は同様。ただし長い。繰り返しの旋律が初稿版の方が多いのです。そしてナポリ民謡のような中間部の旋律について、初稿版はテンポ変化を書いていません。ですのでその前後と同じテンポ設定をしました。最終稿はぐっとテンポを落として、緩やかに伸びやかに歌い上げます。
ピツィカートの旋律はシベリウスの一つの特徴ですが、木管との絡みの部分で最終稿ではばっさりとなくなっているものがあります。ちょっともったいないな・・・・というのは個人的感想。

第4楽章は皆さん期待感たっぷりであの3つの音をまっていらしたのではないでしょうか・・・・
トランペット3人による、突然の割り込んでくる音。あの素材は最終版でもちゃんと残っています。でもあのような明確に聞き取れるものではない。白鳥の声、自然の咆哮、これも最終稿で取られてしまったというところに、改訂にあたってのシベリウスの思考がわかります。
4楽章形式である初期版は、最後が特徴的。最終稿で有名な休符を含む和音の連続ではなく 弦楽器の刻みにより和声が支えられ、そこに金管セクションが和音を奏でてゆき終止を形作るスタイルは、より荘厳なものを感じます。終止にいたる道のりも初期版の方が時間をかけて、そしてオーケストレーションもより華麗に描かれています。タクトを持っていてもその響きの中で非常に感動を覚えるものでした。

後半に演奏した最終稿は、アイノラ響は3回目の取り組みになります。第1回、第5回、そして今回。
3回演奏しているメンバーは弦楽器は数名、管楽器はもう少し多いですが、それほど多くはありません。
それでも不思議とオーケストラとして回数を重ねている不思議な安心感はありました。
同じステージの時間の中で、最終稿にたどり着いた時、これまで手掛けてきた(ほかの楽団での演奏も含めて)時に感じたことのない、不思議な感覚を持って指揮していました。
初稿版に比較して、圧倒的に凝縮されたエネルギーを持ち、整理整頓され、核となる音楽の言葉をわかりやすく配置したこの最終稿に、ある種の窮屈さを感じました。悪い意味ではなく・・・まったく異なる時間を構築しているという実感を得ていました。

1915年に初稿版は初演されていますが、1911年の第4番に描かれていた世界に近い姿が、初稿版には見られます。和声の点でも、管弦楽法の点でも。そこから最終稿に至るまで、そぎ落とした冗長の部分、和声の整理にはバランスの良さを非常に感じます。
とにかく、この貴重な機会を得られたことに、心より感謝しています。
許可を取ることや楽譜の手配などは手間をかけて動いた部分ではありますが、なんといっても演奏者がいなくてはできない企画です。ダブルシンフォニーは演奏者に大きな負担です。ましてや同じ作品の異なる版、その差異は2曲の異なる曲とはちがった微妙なものです。演奏者の神経疲労はひとしおだったと思います。
演奏時間は短いです。40分弱、35分、2曲あわせて・・ベートーヴェンのSym9,あるいはマーラーの交響曲などの1曲分。内在する世界は深く広い。アイノラ響のメンバーには心より感謝です。
アイノラ響はヴァイオリンの人数がやや少ないのです。今回もエキストラのお力を借りました。ありがとうございます。ほかのセクションも助けていただいた皆様、この貴重な機会をご一緒くださり、本当にありがとうございます。

長期にわたるリハーサル、私以外に、トレーナーの先生方にお世話になっています。お弟子様は細部を厳しくリハーサルしてくださいました。各トレーナーの先生方、お力をお借りしました。深く感謝申し上げます。

吟遊詩人の作品の美しさは前述しましたが、ハープには篠原英子さんにお願いしました。
一昨年の公演でもお世話になりました。今回もその音の魅力で詩人の言葉を語ってくださいました。
心より感謝しています。

アンコール1曲目は、春の歌の最終稿。ハードでしたがこの2対の対照は実現させたかった・・・・
そして、アンダンテ・フェスティーヴォで終演。アイノラ響はいったい何度この作品を演奏しているのか。
リハーサルの始まりは、この曲からです。それが伝統です。

来年もまた大きな作品を手掛けます。まだ発表できない1曲、それが実現できると日本初演になります。
2017年はフィンランド独立100年の年です。シベリウスの祖国のお祝いに・・・そのようなコンセプトのプログラムとなります。お江戸コラリアーずの皆さんと再共演です。楽しみです。

シベリウスの改訂の軌跡、思考の旅、ご一緒くださった皆様に、大きな感謝を。

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たくさんのお客様ご来場くださいました。なんと中学の同級生の皆さん!楽屋を出たらお顔が並んでいて、びっくりぽん!感激!うれしかったです。ありがとうございました!!

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今回もエキストラで手伝ってくれた、麻由さん。そのお母様は大学の同級生のきーこさん!
麻由さんは我々と同じ大学でヴァイオリンを専攻。卒業していろいろと活動しています。
自分、年とったなあ・・・・・

フィンランド関係、シベリウス協会関係の皆さんもご来場。皆様、本当にありがとうございました!

[2016年4月10日 19:34]

コメント(2)

 昨年末にオーケストラ・ハモンの演奏で1番や7番を拝聴した時「シベリウス演奏の密度と確信度はアイノラ響の方が圧倒的に優れている。それは、シベリウスへの共感と共鳴が10年を越える歳月をかけて涵養されているからだろうか。」と思いましたが、今回のコンサートを聴いてますますその感を強くしました。
 シベリウスに的を絞って、12年の間精進を重ねてきたこのオーケストラが技術的な進歩だけではなく、天才シベリウスの深遠な世界にひたすら浸り続けたことが、メンバーの皆様の音楽との向き合い方、とらえ方を進化させ、見事な風格ある演奏を作り上げる結果を生んでいるのだと思います。
 「アマオケは自分たちの実力を棚に上げて、とかく難しい曲ばかりあれこれやりたがる」と揶揄されることがよくありますが、それと全く正反対のアイノラ響のぶれない姿勢は、「アンダンテ・フェスティヴォ」に象徴される比類の無い、説得力ある演奏に結実しています。この奥深い確信に満ちた完成度の高い演奏は、プロオケのコンサートでもなかなか出会えないレベルだと感動しました。これができる他のオーケストラはラハティ響ぐらいでしょうか。
 アイノラ響がここまで成長できたのは、勿論、シベリウス作品に格別の造詣をお持ちの新田先生のたゆまぬご指導が有ってのことですが、新田先生にとっても今や我が子のような存在となっているこの団体との相互作用で新しい境地を次々と開拓して居られるのだろうと思いました。
 二つの「第五交響曲」と「春の歌」を軸としたこのコンサートの趣向は勿論大成功でしたが、生演奏で初めて聴く珠玉の名曲「吟遊詩人」も期待通りの名演で、忘れられない演奏会の記憶がまた一つ増えました。至福の思いです。有難うございました。

junsinさま

コメントありがとうございました。
いつも丁寧にお聞きいただき、早速のコメントも本当にありがとうございます。
蓄積は大切なことだということを、活動の中で私自身教えられています。作曲家が時間をかけて命を削って書き上げた作品に対して、後世の我々がどのように向き合うかということは、演奏の結果に反映されるということも教えられています。作品の精神に寄り添いたいと願うメンバーが集うアイノラ響で演奏したシベリウスは、演奏の傷は多々ありますが おそらく作曲者の想いを音で具現化したいという演奏者の願いと思いがあっての結果だと思います。そのことを大事にお聞きいただけるお客様が集まってくださること、本当に有難く幸せなことだと思います。
何度演奏したか数えられないアンダンテ・フェスティーヴォが客席の皆様に何かをお伝えできる演奏であるとすれば、それが理由です。血となり肉となるということは簡単なことではないと自戒を込めて思っております。
指揮者として、まだまだこれからも作品一つ一つに大事に向き合いたいと思います。またお聞きいただけますと幸いです。ありがとうございました。

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森と湖の詩日記
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