2007年のクッレルヴォ公演の折大変にお世話になった言語学者小泉保先生が、昨年12月18日闘病の末亡くなられた。日本でフィンランド語、あるいはカレワラに接している人は全員が先生のお名前を存じ上げていたと言っても過言ではない。そして日本神話初め世界の神話に言及された視点でカレワラの世界を描かれている数々の文章からは、多くのことを学ばせていただいている。クッレルヴォ公演の際にもご自宅でたくさんのお話をうかがえた機会を今は幸せに思う。改めてここにご冥福をお祈りいたします。
「さらば、レンミンカイネン!」
他国の文化、文学を語るときにその言語の学びは必要か・・・と訊かれたら「必修です」と小泉先生はおっしゃっていたと思う。表現された言葉は違っていたがその内容を力強く語っておられた。私事ながら私の父も言語を専門としていて、やはり同様のことを度々口にしていた。
では他国の作曲家が作った音楽は、その背景となる言語や文化を知らなくては理解し楽しむことができないのか・・。それは否であろう。音楽という別の言語に作曲家が翻訳してくれたもの、それが音楽作品であり世界共通の言語といわれる音楽の姿だ。音の言葉で多くの人が楽しむことができる。
しかし、その作品を深く理解するためには翻訳の前の作業、原文にあたるという段階を踏みたくなる。作品と作曲者の背景を知ること、それを行うことが演奏にあたってより深く作品への理解へとつながる。今回の演奏会は出演者一同カレワラの世界に飛び込む。
では他国の作曲家が作った音楽は、その背景となる言語や文化を知らなくては理解し楽しむことができないのか・・。それは否であろう。音楽という別の言語に作曲家が翻訳してくれたもの、それが音楽作品であり世界共通の言語といわれる音楽の姿だ。音の言葉で多くの人が楽しむことができる。
しかし、その作品を深く理解するためには翻訳の前の作業、原文にあたるという段階を踏みたくなる。作品と作曲者の背景を知ること、それを行うことが演奏にあたってより深く作品への理解へとつながる。今回の演奏会は出演者一同カレワラの世界に飛び込む。
フィンランドの民俗詩として「カレワラ」があり、「カンテレタル」がある。リョンロートの偉業、叙事詩「カレワラ」のみならず叙情詩「カンテレタル」の編纂も行ったこと。両者は深くかかわり実際現在我々が通常読める「カレワラ」には「カンテレタル」からの挿入が多くみられるという。
本日1曲目の<ラカスタヴァ・愛するもの>は「カンテレタル」を基にした合唱曲がオリジナルである。
「カンテレタル」というあまり一般的になじみのない言葉、それはカンテレを爪弾きながら謳われる叙情詩。
小泉保先生執筆の資料によると、「カンテレタル」の詩集は3部構成、第1部で一般歌謡として・誰にも共通するもの・結婚関係者の歌が並び、第2部は特殊歌謡として・娘たち・女たち・若者たち・大人たち、それぞれに関する歌。そして第3部は物語詩で・古代信仰・歴史・物語がそれぞれ謳われている。日々の暮らしに密接に関係することが人間をとりまく自然の描写とともに美しく素朴に語られている。ラカスタヴァはその一節。
カンテレは「カレワラ」の後半に燦然と輝きをもって登場する楽器である。「サンポ」という富を生み出す魔法の宝物を奪回のためポホヨラに向かう航行中、詩を歌いあげ舵を操り進むワイナミョイネンが舟に引っかかったオオカマスを引き上げた。その顎の骨に馬の毛を張り作り上げたものが最初のカンテレ。魚骨の琴=カンテレ。この楽器を爪弾き謳い上げる様は剣を持ち盾を構え進みゆく戦士よりもはるかに力強く大きな姿として「カレワラ」には描かれている。その意味について、またその価値について正直私自身以前は理解できていなかった。「カレワラ」で度々語られる詩人の偉大さについて、その意味するところの本当の世界観、価値をつかむのには時間がかかった。これを理解していないと「カレワラ」関連の作品は演奏できない。
「カレワラ」全50章の終盤、登場するヒーローのうち3人が「サンポ」奪回に力を合わせてポホヨラに向かうシーンがある。700歳を超える偉大なる詩人ワイナミョイネン、物づくりの知恵者鍛冶屋イルマリネン、そして腕に覚えのある勇者、またいわゆる「イケメン」であるレンミンカイネン。この三人の取り合わせは非常に面白く示唆に富んでいる。それぞれの持てる力を発揮し「サンポ」を奪回した後、勝利の詩も謳わず静かに舵をとり故郷カレワラの地を目指す賢者ワイナミョイネン。武勇伝を語りたいレンミンカイネンはついに船上大声で歌う。ポホヨラの軍勢を眠らせひそかに奪回したサンポだったが、この大声により持ち主ポホヨラの女主人に知られることとなってしまい、レンミンカイネンの若さを読者としてもなんと恨めしく思ったことか。おまけに女主人ロウヒが雷神ウッコに命じた大風により、かのカンテレが吹き飛ばされ湖底に沈む。悲嘆にくれる老ワイナミョイネン!若気の至りがもたらす様々な問題・・・こんな姿は今の世にもゴロゴロと転がっている。
「おおレンミンカイネンよ!君は・・・」と人生後半に入った自分はワイナミョイネンの気持ちになる。しかし後にポホヨラの女主人の差し向けた軍船と一線を交え勝利し、そして女主人が怪鳥に姿をかえ彼らの舟に乗りこんできた最後のシーンでは詩人ワイナミョイネンも「ついに己も決闘に立ち向かう時だ」と怪鳥に痛手を負わせる。詩人が立ち上がったのである。戦いの結果「サンポ」は粉々になり湖に沈み、その一部はワイナミョイネンが大地に埋めた。それにより湖は潤い豊かな大地がはぐくまれ耕作が始まるという話になる。
リョンロート氏が編纂して50章を一貫したストーリーとして仕上げているカレワラ。天地創造から始まり最後にはマルヤッタが産み落とした「カレワラの王」なる赤子の誕生とワイナミョイネンの隠遁という世代交代ともいうべきシーンまで、実に現代社会に通ずる示唆に富んだ言葉が並んでいる。それはワイナミョイネンの登場にそって表れる。「知恵あるものが道を進み、知恵なきものは道を譲る」「傲慢な心で舟をつくってはいけない」「トゥオネラ(死の国)は自分から望んでゆくところではない」「若いうちに妻を探しておくべきだった!」
多くの失敗から学んだワイナミョイネンがそう語る。なぜ詩人がもてはやされ尊敬され、力を持つのか。それは「ことば」にすることで文化の異なるもの同士の理解が可能になるから。共通の概念をつなぎ、他者を理解することで魂の世界は広がり、知恵をつなぎ更に新たな知恵も生み、そのように賢者の環が広がってゆく。人々の知が豊かになる。それは武力ではなしえない。情熱的な行動だけでも成し遂げられない。
実はレンミンカイネン君も詩人としてもてはやされているシーンがある。二度目のポホヨラへの出奔で大いなる失敗をし、母に諭されサーリの島へ隠れる。「もう戦にはいきません!」「剣の試合にも出ません!」と母にかたい約束をして滞在することを許された場所である。そこでレンミンカイネンは高らかに謳う。ナナカマド、樫の木、郭公の詩を島の娘たちに謳った。そこからは輝く金銀、真珠が溢れ 大地は美しく緑なしていった。娘たちのヒーロー、あこがれの的となったのは当然だ。そしてそれに反感を持つ島の男たちに追放されてしまうのも、残念ながら当然の流れ。
血気盛んな本日のヒーローレンミンカイネンの巻き起こした事件は数知れず。いずれも「思慮浅い」若者独特の行動の結果である。レンミンカイネンの謳い上げる詩は美しく輝くが、その言葉の後ろには深遠な世の哲学も摂理も節度ある思慮深さの姿は見られない。ワイナミョイネンが勝利の詩を謳わなかった理由も彼にはわからない。当然である。若いのだ。経験がない。ワイナミョイネンは世の中に出て動き出すまでに700年も静かに考えていた。
ここまで書いてきて気がついた。どうやら私自身そろそろレンミンカイネン的なものから離れようとしているのかもしれない。どうにもワイナミョイネンの詩が気になってきた。振り返ればレンミンカイネンだった自分が見える。本日の演奏はレンミンカイネン君への訣別の詩としようか・・・。
<参考資料>
「カレワラ・タリナ」マルッティ・ハーヴィオ著 坂井玲子訳
「フィンランドの文学」カイ・ライティネン著 小泉保訳
「カレワラ神話と日本神話」小泉保著
「カレワラ」リョンロート著 小泉保訳