日立創業100周年記念演奏会シリーズが始まっている。とりあげた作曲家はベートーヴェン。
「交響曲」が、それが生まれた時代から現代の我々の時代まで生き延びることができた一番の功労者。そんな称号がベートーヴェンには与えられるかもしれない。モーツァルトとハイドンだけであったら、現在我々が聞くことにできる交響曲は半減するかもしれない。
「交響曲」が、それが生まれた時代から現代の我々の時代まで生き延びることができた一番の功労者。そんな称号がベートーヴェンには与えられるかもしれない。モーツァルトとハイドンだけであったら、現在我々が聞くことにできる交響曲は半減するかもしれない。
<<ラーシュ=エーリク・ラーション(1908-1986)抒情的幻想曲 1968年作曲>>
北欧諸国の中ではフィンランドのシベリウス、ノルウェーのグリーグ、そしてデンマークのニルセンがそれぞれの国を代表する作曲家としてすぐに名前が挙げられる。その点スウェーデンは即座に名前の挙がる作曲家が少ない。近年漸く日本に於いてもスウェーデンの作曲家の名前が少しずつ演奏会に上るようになってきた。東京には「ステーンハンマル(1871-1927)の会」があり、広島交響楽団は定期的にスウェーデンの隠れた名曲を初演している。大阪シンフォニカでも児玉宏指揮によるアッテルベリ(1887-1974)の演奏は記憶に新しい。筆者はこのラーションからスウェーデン音楽の世界に入りダグ・ヴィレーン(1905-1986)作曲の「セレナーデ」は度々演奏する。もっともラーションという名前は北欧の人名を本国の表音に近いものにという最近の動きの中で呼ばれるようになってきたものだ。以前はラルソンあるいはラルッソンと表記されていた。
スウェーデンのスコーネ地方農村の中流階級に生まれたラーションはストックホルム音楽院で1925-1929年の間作曲を学んだ後、ウィーンでアルバン・ベルクに師事。またライプツィヒ音楽院においても1930-1931年に学んでいる。音楽批評家、合唱指揮者など多岐にわたる活動の後、ラーションはスウェーデン放送に指揮者として勤めた。この期間1937-1954年の作品はラーションの幅広い作曲技法が十分に発揮され、1940年に書かれた「姿をかえた神」は代表作と言える。その後ストックホルム音楽院、ウプサラ大学で教職についている。1957年に作曲された12の楽器のための小協奏曲集はよく知られている。
本日演奏する抒情的幻想曲は1968年に作曲。この時期のラーションへのインタビューの中で「自分はもっとシンプルで穏やかな軽快な曲を書きたい」という言葉を残している。その言葉通り1968年という時代にあって透明な美しさと分かりやすさ、そしてラーションの技の軽妙さが際立つ小品の魅力がお聞きいただけると思う。
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スウェーデンのスコーネ地方農村の中流階級に生まれたラーションはストックホルム音楽院で1925-1929年の間作曲を学んだ後、ウィーンでアルバン・ベルクに師事。またライプツィヒ音楽院においても1930-1931年に学んでいる。音楽批評家、合唱指揮者など多岐にわたる活動の後、ラーションはスウェーデン放送に指揮者として勤めた。この期間1937-1954年の作品はラーションの幅広い作曲技法が十分に発揮され、1940年に書かれた「姿をかえた神」は代表作と言える。その後ストックホルム音楽院、ウプサラ大学で教職についている。1957年に作曲された12の楽器のための小協奏曲集はよく知られている。
本日演奏する抒情的幻想曲は1968年に作曲。この時期のラーションへのインタビューの中で「自分はもっとシンプルで穏やかな軽快な曲を書きたい」という言葉を残している。その言葉通り1968年という時代にあって透明な美しさと分かりやすさ、そしてラーションの技の軽妙さが際立つ小品の魅力がお聞きいただけると思う。
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本日の演奏会のプログラミングには “ブルックナーの前にベートーヴェンがいたのだ”という想いを含めている。当たり前の歴史的な事実ながら、現代の音楽界を取り巻く現状~300年前の作品も昨日出来上がった作品も同じステージに並ぶ~または~自宅のCD・レコードBOXに手を伸ばせば、好きな時代の好きな作品の演奏がいつでも聞ける~という現状を考えてみると、シンプルにその曲が生まれた瞬間に正確な距離感をもって思いを馳せ作品を見つめているのか改めて自問したい想いが沸き起こる。
ブルックナーは特に近年、マーラー&ブルックナーなどという括りで音楽業界も盛んに売り出した時期もあり、比較的新しい作曲家ではないか・・・と認識する人も多いが見事に19世紀の作曲家。一方2008年に日立フィルで共演したマーラー(1860-1911)は20世紀をまたいで活躍した人物。そして本日主役のベートーヴェンは18世紀から19世紀を人生の半分ずつ体験し、ブルックナー生誕の時1824年は54歳であり「第九」を完成させていたのだ。
ブルックナーは特に近年、マーラー&ブルックナーなどという括りで音楽業界も盛んに売り出した時期もあり、比較的新しい作曲家ではないか・・・と認識する人も多いが見事に19世紀の作曲家。一方2008年に日立フィルで共演したマーラー(1860-1911)は20世紀をまたいで活躍した人物。そして本日主役のベートーヴェンは18世紀から19世紀を人生の半分ずつ体験し、ブルックナー生誕の時1824年は54歳であり「第九」を完成させていたのだ。
<<アントン・ブルックナー(1824-1896)交響曲第4番 変ホ長調 ロマンティック>>
第0番から第9番と番号のつかないヘ短調の交響曲を書いているブルックナーは、一般的には本日の第4番と第7番以降の3曲が良く知られている。1863年から未完の第9番のペンがおかれた1896年の33年間にわたり書き続けられた交響曲。本日の第4番は第3番を書きあげた二日後1874年1月2日から着手されている。その後改訂を重ね出版に至る1889年まで15年間第4番はブルックナーの手元で育っていたことになる。簡単にブルックナーの交響曲作曲の歴史を表にしてみた。
調性 | 作曲年代 | 初演 | 出版 | |
ヘ短調 | 1863年 39歳 | 1913年(一部) 1925年(全曲) | 1973年 | |
0 | ニ短調 | 1869年 45歳 | 1924年 | 1913年~1914年 |
1 | ハ短調 | 1865年(リンツ稿)41歳 1891年(ウィーン稿)67歳 | 1868年 1891年 | 1893年 |
2 | ハ短調 | 1871年~1872年47歳~ | 1873年 | 1892年 |
3 | ニ短調 | 1872年~1873年48歳~ | ||
4 | 変ホ長調 | 1874年 50歳~ | 1881年 | 1889年 |
5 | 変ロ長調 | 1875年~1878年51歳~ | 1894年 | 1896年 |
6 | イ長調 | 1879年~1881年55歳~ | 1883年(2.3楽章のみ) 1899年 全曲 | 1899年 |
7 | ホ長調 | 1881年~1883年57歳~ | 1884年 | 1885年 |
8 | ハ短調 | 1884年~1887年60歳~ | 1892年 | 1892年 |
9 | ニ短調 | 1887年~1896年(未完) | 1903年 | 1903年 (初版) |
ほぼペンを置く間がないかのような様子。しかし最初の交響曲を手掛けたのは1863年、ブルックナーは39歳である。交響曲の着手に慎重であったと言われているブラームス(1833-1897)(第1番の交響曲の完成1876年(43歳)に至るまで21年ほど草稿を温めていた)と同様満を持しての交響曲への取り組み。
ブルックナーの生い立ちはオーストリアのアンスフェルデンという村から始まった。11人兄弟の長兄。音楽的な一家で、父親は小学校教師であり教会聖歌隊合唱団指揮者、オルガン奏者として務め、居酒屋でヴァイオリンを弾くこともあったという。母親は聖歌隊で美声を発揮していたそうだ。
12歳の時に父親が亡くなり、ブルックナーは聖フローリアン修道院の少年聖歌隊へ入隊。通常の学校教育の他、音楽教育のレッスンも受けることになりそこでオルガンの修行も始まった。16歳になり、リンツの教師養成所へ通うブルックナーには、父親と同じ職業へ就く気持ちがあったと見える。このリンツという環境でブルックナーは楽友協会を通して当時の音楽界と接することとなった。ベートーヴェンの交響曲第4番もこの時期にリンツで聴いている。教職を歴任し、母校聖フローリアンでも1845年から11年間務めている。この時期に傍らオルガニストとしても仕事を始めるようになっていた。
そして大きな転機は1855年リンツ大聖堂のオルガニスト試験合格に始まる。教職の傍らという立場ではなく音楽家としてオルガン奏者・作曲家ブルックナーが生まれたのである。それまでの新しい地で教員兼オルガン奏者としての資格を得る試験はさながらコンクールのようであり、勝利によって発行された証明書は積み重なっていった。ブルックナーは特に証明書の取得に努めた記録がある。それは長い修業時代に獲得した技量知識の証明であり、名声を保証されることにもなり、教員音楽家という地位において一番であろうとした姿勢につながっている。他者からの承認にこだわる気質は、作品の初演のあと度々改訂を行い一つの交響曲に多くの稿が存在するという自己批判と完全主義の姿勢にもつながっているように思う。リンツで最高のオルガニストの地位を得てから作曲家としての比重も少しずつ増え1868年にはウィーン音楽院の教授として着任する。その後上述の交響曲作曲の歴史へとつながってゆく。
交響曲に表題をつけたのは第4番のロマンティックのみ。第3番が「ワーグナー交響曲」と言われるのはワーグナーに献呈されたためである。1873年夏にバイロイトを訪ねたブルックナーは第2番、そして第3番の草稿を持参した。ワーグナーは第3番の草稿により関心を持ち献呈を受諾した。ワーグナー信奉者としてのブルックナー交響曲第3番をワーグナーに背を向けたシベリウスが1890年にその第3稿をウィーンで聞いて絶賛している事実も面白い。そしてこの第3番の第2稿初演が1877年に行われた時、それはあいにく大失敗となったのだがその場にマーラーが作曲者を慰める一人として居り、その後この作品を2台ピアノ用に編曲もしている。そんな歴史的な交錯と作曲家同士の影響も作品を通して知ることができる今の世の中から改めて本日第4番を眺めてみる。
なぜこの交響曲だけ「ロマンティック」という表題が付けられたのか、そこには作曲者が作品の草案当時に明確に抱いていたイメージがあった。特に第3楽章には実際に作曲をする以前に「新しいスケルツォは狩を描写。トリオは狩人たちの前で食事の間に演じられる舞曲」という表記をベルリンの評論家に宛てたという資料がある。また後に1878年改訂が行われた折のフィナーレ筆写譜に「民衆の祭り」という記入があったようだ。これは現行のフィナーレにはない。また資料によると更に1890年の手紙の中で、「第1楽章は町の庁舎から一日の始まりを告げるホルンを意図。歌謡的な部分はシジュウカラの声、第2楽章は詩、祈り、小夜曲」などという具体的な風景描写が記されている。古典的な厳格さとの対比のロマンティック。そして彼自身の交響曲作曲の発展の第二期といわれる第4番から第6番の入り口という位置づけ、つまり第3番からの転換も一つのロマンティックであると思う。表から一目瞭然だが初めての長調の交響曲でもある。
第4番の第1稿、1874年作曲時の版の演奏を聴いてみた。第1楽章とフィナーレは60小節ずつ現行版より長く、第3楽章は全く異なる作品と聞こえる。そして上述の作品へのコメントはこの第1稿では実に明確に表現されている。まさに聖堂から一歩踏み出した光景、人間の活力ある世界が聞こえる。
ブルックナーの生い立ちはオーストリアのアンスフェルデンという村から始まった。11人兄弟の長兄。音楽的な一家で、父親は小学校教師であり教会聖歌隊合唱団指揮者、オルガン奏者として務め、居酒屋でヴァイオリンを弾くこともあったという。母親は聖歌隊で美声を発揮していたそうだ。
12歳の時に父親が亡くなり、ブルックナーは聖フローリアン修道院の少年聖歌隊へ入隊。通常の学校教育の他、音楽教育のレッスンも受けることになりそこでオルガンの修行も始まった。16歳になり、リンツの教師養成所へ通うブルックナーには、父親と同じ職業へ就く気持ちがあったと見える。このリンツという環境でブルックナーは楽友協会を通して当時の音楽界と接することとなった。ベートーヴェンの交響曲第4番もこの時期にリンツで聴いている。教職を歴任し、母校聖フローリアンでも1845年から11年間務めている。この時期に傍らオルガニストとしても仕事を始めるようになっていた。
そして大きな転機は1855年リンツ大聖堂のオルガニスト試験合格に始まる。教職の傍らという立場ではなく音楽家としてオルガン奏者・作曲家ブルックナーが生まれたのである。それまでの新しい地で教員兼オルガン奏者としての資格を得る試験はさながらコンクールのようであり、勝利によって発行された証明書は積み重なっていった。ブルックナーは特に証明書の取得に努めた記録がある。それは長い修業時代に獲得した技量知識の証明であり、名声を保証されることにもなり、教員音楽家という地位において一番であろうとした姿勢につながっている。他者からの承認にこだわる気質は、作品の初演のあと度々改訂を行い一つの交響曲に多くの稿が存在するという自己批判と完全主義の姿勢にもつながっているように思う。リンツで最高のオルガニストの地位を得てから作曲家としての比重も少しずつ増え1868年にはウィーン音楽院の教授として着任する。その後上述の交響曲作曲の歴史へとつながってゆく。
交響曲に表題をつけたのは第4番のロマンティックのみ。第3番が「ワーグナー交響曲」と言われるのはワーグナーに献呈されたためである。1873年夏にバイロイトを訪ねたブルックナーは第2番、そして第3番の草稿を持参した。ワーグナーは第3番の草稿により関心を持ち献呈を受諾した。ワーグナー信奉者としてのブルックナー交響曲第3番をワーグナーに背を向けたシベリウスが1890年にその第3稿をウィーンで聞いて絶賛している事実も面白い。そしてこの第3番の第2稿初演が1877年に行われた時、それはあいにく大失敗となったのだがその場にマーラーが作曲者を慰める一人として居り、その後この作品を2台ピアノ用に編曲もしている。そんな歴史的な交錯と作曲家同士の影響も作品を通して知ることができる今の世の中から改めて本日第4番を眺めてみる。
なぜこの交響曲だけ「ロマンティック」という表題が付けられたのか、そこには作曲者が作品の草案当時に明確に抱いていたイメージがあった。特に第3楽章には実際に作曲をする以前に「新しいスケルツォは狩を描写。トリオは狩人たちの前で食事の間に演じられる舞曲」という表記をベルリンの評論家に宛てたという資料がある。また後に1878年改訂が行われた折のフィナーレ筆写譜に「民衆の祭り」という記入があったようだ。これは現行のフィナーレにはない。また資料によると更に1890年の手紙の中で、「第1楽章は町の庁舎から一日の始まりを告げるホルンを意図。歌謡的な部分はシジュウカラの声、第2楽章は詩、祈り、小夜曲」などという具体的な風景描写が記されている。古典的な厳格さとの対比のロマンティック。そして彼自身の交響曲作曲の発展の第二期といわれる第4番から第6番の入り口という位置づけ、つまり第3番からの転換も一つのロマンティックであると思う。表から一目瞭然だが初めての長調の交響曲でもある。
第4番の第1稿、1874年作曲時の版の演奏を聴いてみた。第1楽章とフィナーレは60小節ずつ現行版より長く、第3楽章は全く異なる作品と聞こえる。そして上述の作品へのコメントはこの第1稿では実に明確に表現されている。まさに聖堂から一歩踏み出した光景、人間の活力ある世界が聞こえる。
<<ルードヴィヒ・v・ベートーヴェン(1770-1827) 交響曲第4番 変ロ長調 1806年>>
ブルックナーが若き修業時代に耳にしているこの作品。第3番と第5番のいわば「超有名人」に挟まれた第4番。その姿は麗しく神秘的で思慮深くユーモアに富んでいる。
ベートーヴェンも交響曲の歴史を一覧にしてみよう。
ベートーヴェンも交響曲の歴史を一覧にしてみよう。
調性 | 作曲年代 | 初演 | |
1 | ハ長調 | 1799年~1800年 29歳~ | 1800年4月 |
2 | ニ長調 | 1801年~1802年 31歳~ | 1803年4月 |
3 | 変ホ長調 | 1803年 33歳 | 1805年4月 |
4 | 変ロ長調 | 1806年 36歳 | 1807年3月 |
5 | ハ短調 | 1807年~1808年 37歳~ | 1808年12月 |
6 | ヘ長調 | 1807年~1808年 37歳~ | 1808年12月 |
7 | イ長調 | 1811年~1812年 41歳~ | 1813年12月 |
8 | ヘ長調 | 1811年~1812年 41歳~ | 1814年12月 |
9 | ニ短調 | 1815年~1824年 45歳~ | 1824年5月 |
21世紀の今日から距離を測ると、200年前に誕生した交響曲。ベートーヴェンの人生後半の時間が交響曲と共にあることがよくわかる。この9曲という数字が後世のシンフォニストに「第9番の呪縛」を与えてしまった。それほどまでに交響曲作曲家としてベートーヴェンの地位は確立されていた。
ベートーヴェンは現在のドイツのボンの生まれではあるものの、1792年にウィーンに居を定めて以来ほぼウィーンの作曲家として世間からは見られていた。この年はフランス革命戦争が勃発している。
19世紀初頭のウィーンは多種多様な文化が入り混じり、モーツァルト後のサリエリ、ハイドンの作品は数多く演奏され、1813年頃からはロッシーニに熱狂する人々の姿が見られるようになっていた。ベートーヴェンが師事した交響曲の父と言われるハイドン(1732年~1809年)は晩年ウィーンに戻ってきていたが1802年以後病のため音楽活動は停止状態。ベートーヴェン自身は1800年にピアノの即興演奏競技会で勝利し、ヴィルティオーゾピアニストとしてまずウィーンの街に知られるようになっていた。当時の文化を支えていた貴族階級、新興上流ブルジョア階級が催す数々の私的な音楽界で生計を立てていたのである。貴族の保護のもとを抜け出し独立した作曲家像を打ち立てたベートーヴェン像を我々は語らうが、19世紀初頭のベートーヴェンを支えていたのはやはり貴族階級だった。
1806年、交響曲第4番を完成させた頃ベートーヴェンはすでに数々の精神的試練を乗り越えてきていた。耳の疾病を苦にした「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年)ナポレオンのウィーン侵攻(1805年)そして父親を襲う健康上の不幸、甥カールの後見人としての気苦労等々。しかし1806年頃ベートーヴェンはヨゼフィーネ(著名なテレーゼ・フォンシュヴィック伯爵令嬢の妹)と親密な交際期間があったようだ。後世発見された手紙にその証拠が残っている。ヨゼフィーネは楽才豊かな女性でベートーヴェンの弟子でもあった。当時彼女はダイム伯爵未亡人となっていたが、ほどなく別の縁で再婚してゆく。ヨゼフィーネとの関係は音楽を通して豊かな時間と刺激があったようで、それは交響曲第4番の完成に少なからず影響していると思える。
本日は新ブライトコプフ版を使用している。耳慣れた演奏から3か所明確に異なる音が聞こえてくることをお楽しみいただきたい。研究家の論文の解説はここには収まりきらないので、お客様に注目して頂きたいポイントだけ列挙しようと思う。
ベートーヴェンは現在のドイツのボンの生まれではあるものの、1792年にウィーンに居を定めて以来ほぼウィーンの作曲家として世間からは見られていた。この年はフランス革命戦争が勃発している。
19世紀初頭のウィーンは多種多様な文化が入り混じり、モーツァルト後のサリエリ、ハイドンの作品は数多く演奏され、1813年頃からはロッシーニに熱狂する人々の姿が見られるようになっていた。ベートーヴェンが師事した交響曲の父と言われるハイドン(1732年~1809年)は晩年ウィーンに戻ってきていたが1802年以後病のため音楽活動は停止状態。ベートーヴェン自身は1800年にピアノの即興演奏競技会で勝利し、ヴィルティオーゾピアニストとしてまずウィーンの街に知られるようになっていた。当時の文化を支えていた貴族階級、新興上流ブルジョア階級が催す数々の私的な音楽界で生計を立てていたのである。貴族の保護のもとを抜け出し独立した作曲家像を打ち立てたベートーヴェン像を我々は語らうが、19世紀初頭のベートーヴェンを支えていたのはやはり貴族階級だった。
1806年、交響曲第4番を完成させた頃ベートーヴェンはすでに数々の精神的試練を乗り越えてきていた。耳の疾病を苦にした「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年)ナポレオンのウィーン侵攻(1805年)そして父親を襲う健康上の不幸、甥カールの後見人としての気苦労等々。しかし1806年頃ベートーヴェンはヨゼフィーネ(著名なテレーゼ・フォンシュヴィック伯爵令嬢の妹)と親密な交際期間があったようだ。後世発見された手紙にその証拠が残っている。ヨゼフィーネは楽才豊かな女性でベートーヴェンの弟子でもあった。当時彼女はダイム伯爵未亡人となっていたが、ほどなく別の縁で再婚してゆく。ヨゼフィーネとの関係は音楽を通して豊かな時間と刺激があったようで、それは交響曲第4番の完成に少なからず影響していると思える。
本日は新ブライトコプフ版を使用している。耳慣れた演奏から3か所明確に異なる音が聞こえてくることをお楽しみいただきたい。研究家の論文の解説はここには収まりきらないので、お客様に注目して頂きたいポイントだけ列挙しようと思う。
第1楽章 序奏部 1stヴァイオリンに注目!
主部Allegro vivaceが始まり、最初の繰り返しの直前。始めて聞く音が低弦から・・・。
1楽章の最後。「え!なんか変じゃない?」そう思われた貴方は4番の通!
二つの交響曲第4番を並べたが、もともと交響曲はクラシック音楽の歴史上しばらく脇役だった。
二つの交響曲第4番を並べたが、もともと交響曲はクラシック音楽の歴史上しばらく脇役だった。
そもそもシンフォニアという名称で幕あきの合図として存在していたり、長いコンサートの序曲として位置していたり、交響曲の原点はそこにある。18世紀~19世紀半ばには楽章を分割して一晩の演奏会にちりばめる習慣もまだ残っており、演奏会の主役は声楽や楽器のソリストだったのだ。シンフォニアは雑談の時間であり、開幕を楽しみに待つ紳士淑女への前座であった。
パトロン達のサロンという環境から音楽作品を独立させ、作品自体に壮大な世界を描かせ哲学を語らせたのはベートーヴェンだ。彼がいなければ静寂に満ちたコンサート会場という環境は今存在していなかったかもしれない・・・。そもそもブルックナー開始といわれるあの奏法は開演のベルには向いていない・・・・。
パトロン達のサロンという環境から音楽作品を独立させ、作品自体に壮大な世界を描かせ哲学を語らせたのはベートーヴェンだ。彼がいなければ静寂に満ちたコンサート会場という環境は今存在していなかったかもしれない・・・。そもそもブルックナー開始といわれるあの奏法は開演のベルには向いていない・・・・。