Breitkopf & Härtel社により1998年から出版されているJean Sibelius Works(JSW)のシリーズ。
現在までに11冊が世の中に出ています。Kullervoはオーケストラが3分冊、合唱ソロ譜が1冊加わるので実際は14冊の青表紙の楽譜が並びます。9シリーズ52冊を予定している偉業なのでその完成までには今少し時間が必要と見受けられます。2009年現在、進行途中のリストに交響曲が3曲上っているのはうれしい限り・・・
しかし第5番と第4番の姿はまだ見えない・・・。
このシリーズの完成をみない限りあの世へはいけない、という覚悟も冗談ではなくなってきました。
私の指揮活動の中で1994年頃から交響曲第1番、弦楽合奏の小品をプログラムに乗せてきました。
交響曲も1番から6番、5番、3番、2番、7番という順で取組み、今年の3月の第4番の演奏でようやく7曲すべてとクッレルヴォを一通り演奏し終えたのです。
それはまた新しいスタート地点に立ったことでもあります。
交響曲も1番から6番、5番、3番、2番、7番という順で取組み、今年の3月の第4番の演奏でようやく7曲すべてとクッレルヴォを一通り演奏し終えたのです。
それはまた新しいスタート地点に立ったことでもあります。
当協会に後援をいただいた2007年の東京新聞フォーラムにおけるクッレルヴォ演奏は、全集版スコアをもとに演奏しています。この時点でパート譜はまだ出版されていなかったため、旧版のパート譜に全集版からの変更事項を書き入れての演奏。2008年、2009年に手がけた交響曲第2番はすでに全集版のパート譜も完成しているため、正式に全集版に基づく演奏です。そして2009年8月、交響曲第1番を初めて全集版のスコアを基にして手がけました。全集版以前の楽譜は、交響曲第1番、2番、4番がBreitkopf&Hartelの出版。第3番がRobert Lienau社、第5番6番7番がWilhelm Hansen社からの出版です。この3社による出版が現在ひとつにまとめられて刊行されているのです。
管弦楽作品も全集版を使用しての演奏の機会が増えてきました。
「春の歌」作品16、これは現行版と1895年版の両方を。今年3月の「森の精」作品15、これは日本初演となりました。この楽譜の自筆譜はラハティでの研修時代に見ています。
そして今年8月に駒ヶ嶺理事と共演した「急流下りの花嫁」。これも全集版のスコアを使用しての演奏。
現在私はシベリウスの作品は可能な限り全集版を使用して、また旧版との相違をチェック、そして入手できるものは直接自筆譜を参照して演奏にあたっています。その作業は非常に時間を費やすもので、またそこではシベリウス自身と研究者と自分という三者会談を行っているのです。
今回その三者会談のごく一部をこっそりと皆様にお知らせしたく、この文章を書いてみました。
今回その三者会談のごく一部をこっそりと皆様にお知らせしたく、この文章を書いてみました。
全集版の編纂には多くのシベリウス研究者、作曲家が関わっています。7月に自分で全集版のチェックを終えたばかりの交響曲第1番については参照されている一次資料は、1.自筆スコア 2.初演時のオーケストラパート譜 3.初版の版下コピー 4.初版スコア 5.初版のオーケストラパート譜
そのほかにスケッチの断片や後年シベリウスがユッシ・ヤラスと語った内容も参照されています。
これだけの資料と研究者がそろっての楽譜編纂であれば完璧な楽譜になった!と皆さん思われますが、実際はまだ疑問点が残されているのです。考えてみれば、ベートーヴェンなどは新旧Breitkopfをはじめとして交響曲の版の数は10種を下りません。時間を経て出てくる新しい資料や情報、それをもとにした音楽学的な研究の視点も変わってくることでしょう。その意味ではシベリウスはようやく現在スタート地点にたっている作曲家です。
全集版の交響曲第1番ではっきり「以前と違う」と聞こえる点をいくつか書いてみましょう。
●第1楽章 62小節め
序奏部が終わりAllegro energicoが始まりまもなくの初めの盛り上がりの直前です。コントラバスパートが、これまでarco(弓を使って演奏する)であったところが、この62小節より前に演奏していたpizz(ピツィカート奏法)のまま続ける指示に変更になっています。自筆譜もそのようになっています。
シベリウス曰く「そこはピツィカートのままで」。
ではなぜこれまでの版でarco奏法に変更されていたのか・・・。
編纂チーム曰く「上記資料のうち、初めに印刷されたスコアですでに変更。そしてロベルト・カヤヌスによる演奏(1930年)でもarcoで演奏されているという事実があります。同時に初版からこれまで使用されていたBreitkopgのスコアには全集と自筆譜で採用している71小節目でarcoに戻るという指示も同時にあるのです。つまりシベリウス存命の間から楽譜上には二つの情報があり、その点では曖昧なままなのです。我々は自筆譜に基づく判断をしました」
新田「なるほど、納得しました」
と、まあこのようなことをスコアリーディングにおいて行っています。
これまでの演奏は指揮者の判断に任され、おそらく両方の解釈がなされていたと思います。
これまでの演奏は指揮者の判断に任され、おそらく両方の解釈がなされていたと思います。
●第2楽章10小節目~11小節目 と17小節目~18小節目
穏やかな子守唄のような旋律が続く美しい楽章ですが、この旋律が最後に戻ってきたときに、オーケストラがフレーズごとにいったん止まるような演奏を聞かれていると思います。楽譜上、フレーズが区切れるところの小節線上に(‘)のマークがあるためです。これを一度区切れるように演奏するか、時間は特にかけずにスムースに演奏するかは指揮者の解釈に委ねられます。私は「いったん停止」の方法をとっています。この(’)が、2楽章はじめの同じ旋律の2か所にも自筆譜にはあるのです。全集版はその記述は採用していません。ただ、校訂報告にはそのことを記載しています。採用していないのは、初版のスコアとパート譜ではその印が一部の楽器のパート上で消されていたというのが理由です。しかし今回私はあらためて自筆譜を見てみて、シベリウスが非常にはっきりと印をつけた(‘)を復活させて演奏しました。そうすることによって各楽器が次のフレーズに準備する呼吸をとても自然にとることができました。
穏やかな子守唄のような旋律が続く美しい楽章ですが、この旋律が最後に戻ってきたときに、オーケストラがフレーズごとにいったん止まるような演奏を聞かれていると思います。楽譜上、フレーズが区切れるところの小節線上に(‘)のマークがあるためです。これを一度区切れるように演奏するか、時間は特にかけずにスムースに演奏するかは指揮者の解釈に委ねられます。私は「いったん停止」の方法をとっています。この(’)が、2楽章はじめの同じ旋律の2か所にも自筆譜にはあるのです。全集版はその記述は採用していません。ただ、校訂報告にはそのことを記載しています。採用していないのは、初版のスコアとパート譜ではその印が一部の楽器のパート上で消されていたというのが理由です。しかし今回私はあらためて自筆譜を見てみて、シベリウスが非常にはっきりと印をつけた(‘)を復活させて演奏しました。そうすることによって各楽器が次のフレーズに準備する呼吸をとても自然にとることができました。
●第4楽章 120小節目~147小節目
弦楽器がユニゾンで、または掛け合いで激しい旋律を奏でてゆくところですが、このコントラバスパートはこれまで他の弦楽器と同様八分音符を刻む指示でしたが、刻まずに八分音符のまま演奏するように変更されています。これは自筆譜にヒントがあり、シベリウスの指示で「コントラバスは八分音符で」という言葉が明確にあるのです。ただし自筆譜においてもその言葉と裏腹に音符では刻む指示になっている個所もあり、不明瞭であったことは確かです。全集版は自筆譜のメッセージに従った楽譜になっています。
そのほかにも強弱の変更は多々。シベリウスに特徴的なクレッシェンドとディミニュエンドの場所や長さの変更もたくさんあります。アクセントとディミニュエンドが紛らわしいのも自筆譜をみるとよくわかります。
一か所、今回は全集版に従いましたが自分の中で疑問が残る点があります。
●第1楽章 291小節目、練習番号T
全集版はすべての楽器にp(ピアノ)の強弱を記しました。旧版の楽譜ではファゴットとハープのみmf(メゾフォルテ)で、ほかはp。自筆譜はトロンボーン以外すべてmfなのです。校訂報告によると音楽的分析の見地から最終的にすべてpという指示と判断したとあります。確かにここで全体がpに落ちると効果は絶大です。しかしその前後の流れから判断すると、シベリウスがよく用いる手段、楽器ごとの強弱が異なることによる遠近感を用いて、自筆譜のとおり、ハーモニーの役割のトロンボーンだけp、あとはその前のフレーズのf(フォルテ)から自然にディミニュエンドで得られた強弱、mfであるほうがより納得できると私自身は判断しています。
全集版はすべての楽器にp(ピアノ)の強弱を記しました。旧版の楽譜ではファゴットとハープのみmf(メゾフォルテ)で、ほかはp。自筆譜はトロンボーン以外すべてmfなのです。校訂報告によると音楽的分析の見地から最終的にすべてpという指示と判断したとあります。確かにここで全体がpに落ちると効果は絶大です。しかしその前後の流れから判断すると、シベリウスがよく用いる手段、楽器ごとの強弱が異なることによる遠近感を用いて、自筆譜のとおり、ハーモニーの役割のトロンボーンだけp、あとはその前のフレーズのf(フォルテ)から自然にディミニュエンドで得られた強弱、mfであるほうがより納得できると私自身は判断しています。
シベリウスの楽譜においては、音楽的な形式の中で普通行われる整合性が必ずしも当てはまらないこと、強弱の指示が非常に独特であり、同時に演奏される楽器の強弱は一律であると判断するのは危険であることはこれまで様々な演奏家によって証明されてきました。その演奏家たちが見ている楽譜、その中にもまだまだミステリーがたくさん隠されており、シベリウスにぶつけたい疑問質問は増えるばかりなのです。ほんの一つの記号から大きな違いが生まれ、それがまた演奏の全体に影響する・・・そんな世界もあることをちょっと心の隅に留めて演奏をお聞きいただけると嬉しいです。
これから続々と刊行される全集版の管弦楽作品はすべてこのように三者会談を机上で行いながら、その会議の結果を持ってオーケストラとリハーサルを行いお客様にお届けするという手順を踏みます。校訂報告には現段階で疑問が残る点は、いくつかの判断とその材料をすべて掲載しています。その上で行った判断に対して演奏家は一緒に考え続けないといけないのだと今回改めて感じています。
「クッレルヴォ」「森の精」「春の歌」「交響曲第1番」「交響曲第2番」での三者会談を終えての雑感でした。
あ・・・新たに一冊届きました。「エン・サガ」です。オリジナルバージョンも掲載されています。今年の年末と来年に演奏する曲です。また会談の設定をしなくては・・・。全集は15冊になりました。