アイノラ交響楽団第6回定期演奏会コラム

「シベリウスの記し」

 
 「若き日、生きる力を歌い上げた才能は壮年に向かうにつれ、作曲家自身の本質-自然との同化(すべての源がそこにあると悟る能力)-を深め、ほとんど人の手による形式構造の説明を不要とする「わかる」という感覚で聴いている人に風景が見えるのである。」
 
 昨年のプログラムコラムの最後がこの言葉だった。「若き日」と交響曲第5番の途中に今回の作品たちが生まれている。交響曲第4番が世の中に響いたのは1911年の4月3日。1911年という年は第3交響曲の頃接点を持ったグスタフ・マーラーが没した年。この第4交響曲の初演の翌月5月18日が命日。マーラーは1860年生まれ。シベリウスより5歳年長であるだけだ。改めてシベリウスの長命を実感できる。結果的に長命であったシベリウスだが、当時は喉の腫瘍の術後ということもあり、紛れもなく「死」への意識と向き合う日々。内なる「享楽への傾向」とも闘争していた。(珠玉の弦楽四重奏Voces Intimae-内なる声は1909年作曲)。私事ながら当時のシベリウスの年齢と現在一つ違いの自分、この世代に押し寄せる様々な心身の変化と社会の中での役割を考えると、シベリウスの抱えていた「憂い」も数年前よりは身近に感じる。
 
 トゥルクのSibeliusmuseumからの資料で、シベリウス自身がチェックを入れたBreitkopf&Härtelのスコアを確認した。シベリウスが「こだわった部分」を読むことができる。全楽章を通して6箇所に「流れて」という記入がある。第1楽章ではTempoⅠが出てくる度にこの書き込みが、そして第3楽章は興味深い記しがある。この楽章はプリント譜に四分の四拍子と明記。しかしテンポ表示が Il Tempo largo(緩やかに遅く) とあり、四拍子を8つどりにするほど遅くする演奏のほうが巷には多いと思う。(本日は?) この楽章の冒頭にシベリウスの書き込みであえて「4/4」とある。そして58という数字がうっすらと。この意味するところは「遅すぎず」の心が読める。この楽章の途中3箇所に前述の「流れて」の指示が見える。第4楽章には二分音符=126の数字が。また初版で間違えのあったオーボエの臨時記号の訂正、そして練習番号Gの近辺に「?」のマークが。この?が私の中で?となってこだましている。この交響曲はまさしくブルックナーの影響を大きく受けているオーケストレーションと響きが聞えるが、このG近辺はその影響を更に発展させたシベリウスの世界との融合が感じ取れる箇所として自分は魅力的に思っている。作曲者に「何が<?>」と問いたい気持ちを本日は演奏にのせたいと思う次第。
 
 この交響曲第4番を書いていた時期、シベリウスは多くの作品を同時に手がけていた。本日演奏の<インメモリアム (1909-1910)>、<木の精(1910)> 。インメモリアムは1909年に完成していたものの、1910年2月18日に出版社Breitkopfへ「印刷を待ってくれ、変更をしたい」という内容のテレグラムを送っている。現在ラハティ響の録音でこの作品の初稿版を聴くこともできるが、曲の導入部やオーケストレーションに対して当人は不満を感じたようだ。面白いことに出版社側は「我々はオリジナル版をとても気に入っているが、おっしゃるとおりこれを破棄することを約束しましょう」と返事を送っている。3月20日に最終稿を出版社に送ったシベリウスは、「私はこの新しい版が気に入っている」と添えた。改定ということもこの時期盛んに行っている。  1902年に書いた女性合唱と管弦楽の<即興曲>op.19 と<火の起源>も1910年に改定。<クオレマ>の2つの小品も手を入れている。作曲以外に旅や演奏も多かった。また、このアイノラ交響楽団の演奏会開演のチャイムとしてお耳になじみの<カッリオ教会の鐘の音>も、この時期に依頼された。そのメロディの完成は1912年。
 
 交響曲の第1楽章のインスピレーションは、北カレリアのKoliで得ているが、その後完成まではむしろ雑多な用事の中で、またノルウェーやドイツへの旅の中で完成へと歩みを進めていた。瞑想的で陰鬱という作品の特徴は決して静かな環境から生まれたものだけではなかった。むしろ現世において多くの物事に囲まれ、またこの時代に交響曲を書くことへの意義と迷いとを含み持っていた。シベリウスの手紙に「この交響曲はpresent-day musicへの抗議だ」という記述がある。また「交響曲は人生における内なる告白である」と1910年11月5日の日記にある。世界が激しく動いていた時代。シベリウスの記しには重さも厳しさも、また多くの不安が感じられる。
 
 一方シベリウスにとって若き日である1895年4月初演の「森の精op.15」は自筆譜を見ることができた。削除、追記、コメントなどが多い楽譜となっていた。この曲の演奏は現在世の中に2種類の楽譜を基にしたものが出回っている。そして総譜はBreitkopfからの全集版にも納められ、すでに出版されている。この楽譜を手に音源を聴くと途中で迷子になる可能性がある。実は世の中の演奏は今回校訂報告の入った楽譜よりも部分的に短くなっている。おそらく今日お聴きいただく演奏は、「森の精」最長バージョンになると思う。(すでに全集版で演奏したオーケストラがあれば別であるが)。
自筆譜にはオーケストレーションの変更、小節の削除、リズムの変更が明確に残っている。そして37ページから40ページが紛失している。
 冒頭の5小節目の弦楽器の音に全集版の楽譜と世の中の録音に違いがあるのが見つけられる。ドラドレソレが全集版の楽譜。録音はドソドレソレが多い。(ラハティ響の2度目の録音は全集版を採用している)。自筆譜を見ると、この部分大変に判読が難しい。また同じフレーズが全集版の303小節目に金管楽器で現れているが、あいにくこの部分が丁度自筆譜が紛失しているため資料が不足。ただ、残っている楽譜の鉛筆で斜線をひいて消してある下を丁寧に見ていると、同じ箇所が弦楽器に書かれていて、そして問題の箇所の音は1stヴァイオリンと2ndヴァイオリンで音が異なっている。ラなのかソなのか・・・今度は私が<?>を記したい。はたして本日は?
 この曲にはもう一つ大問題の箇所がある。最後である。自筆譜はティンパニのみにディミニュエンドが書いてある。しかし校訂報告によると、その後シベリウスがすべてのパートにディミニュエンドを書き入れた-とある。全集版はそれに則りdim.マークがすべてに入っている。作品の内容を考えると、最後は決してヒーローとして終わるのではなく、魂を奪われた悲しみや絶望が漂うほうが相応しいと考えている。
 
 シベリウスの楽譜はその姿が美しい。抽象的な言い方だが、白と黒のバランスが非常に良い。楽譜そのものが自然の風景を写しているように、決して同じ姿は現れず絶えず動いていて、そして音楽の緩急のバランスが音符の姿を見ているだけでも感じられる。速い音階の上下する様、シベリウスの特徴の第一である弦楽器の刻みやトレモロは絵画のような心地よさを感じさせる。もっともこれは総譜-スコアの話。オーケストラの各メンバーのパート譜は異なる風景が見える。ひたすらに「嵐」、ひたすらに「静寂」、その静寂を破るかのような「鳥のひと鳴き」の役割・・・シベリウスの楽譜は個人練習が難しいと皆さんおっしゃる。各パートの役割が個別には理解しにくい。集合して初めて意味のある響きとなって生きてくる。
 
 生と死-第6回目の定期演奏会のテーマはこの一言につきる。命の始まりと終わりは個々の個体のものでもあり、それは宇宙の連続する時間の中で、大いなる一つのドラマでもある。シベリウスの記した「命」を本日は全員で奏でます。
 
参考文献 Sibelius                       アンドリュー・バーネット著
     Jean Sibelius Complete Works   Breitkopf&Härtel
<無断転記ご遠慮ください>
[2009年3月25日 12:30]

森と湖の詩日記
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