
紀尾井シンフォニエッタ東京 第59回定期演奏会
2007年5月18日(金) 19日(土) 紀尾井ホール
指揮 ヨーン・ストルゴード
ヴァイオリン アナ・チュマチェンコ
フィンランドの5月1日はVappu(ヴァップ)というメーデーにあたる祭典。卒業のシーズンでもあり白い布地の学生帽が街に繰り出す。長い冬から解放された喜びが白樺林の間に緑の絨毯となって溢れている。そこに咲くのは黄色と白と薄紅色の花だけ。限られた色彩に描く喜びは深い。
北欧は5つの国からなる。もっとも東に位置するフィンランドから、紀尾井シンフォニエッタは今回1963年生まれの実力派マエストロを迎えた。筆者はラハティ交響楽団でこの同世代のマエストロの演奏を何度も拝聴。楽員からの信望も厚く、緻密で熱の入った演奏が繰り広げられていた。
ストルゴードはフィンランド唯一の音楽大学であるシベリウスアカデミーでヴァイオリンと指揮を学んでいる。フィンランドという国は最近その教育メソードが高い評価を受けており、自然環境を大事にしながらIT産業を中心とした近代国家形成、そして福祉と健康産業に注目が集まり頻繁に日本から現地へ視察団が派遣されている。
今年は北欧を代表する作曲家エドワルド・グリーグ(1843-1907)、ジャン・シベリウス(1865-1957)が二人そろってメモリアルイヤーを迎えた。しかし北欧音楽を語るのにはもう一人忘れてはならない作曲家がいる。デンマークのニルス・ゲーゼ(1817-1890)。 ニルス・ゲーゼは1841年、24歳の時に<序曲 オシアンの余韻>を作曲しコペンハーゲン音楽協会賞を受賞。25歳で<交響曲第1番>を書き、その作品をドイツのメンデルスゾーンに送ったことから北欧と中欧が繋がった。
若き異国の作曲家の作品にメンデルスゾーンは感動し、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団でこの作品を初演、ドイツにゲーゼの存在を知らしめた。後にライプツィヒに渡ったゲーゼは、音楽院で教授を務めながら指揮者としても活躍。シューマンとも親交を深めることとなった。1847年11月にメンデルスゾーンが亡くなると、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者の任についた。しかし1848年のドイツ(プロイセン)-デンマーク戦争のためやむなく帰国となりコペンハーゲンへ戻ったのである。
後のゲーゼの活躍は北欧音楽の父と呼ばれるに値するものだった。若きグリーグに交響曲の作曲を勧めグリーグはそれを数日で書き上げた。デンマークを代表するカール・ニルセンもゲーゼの弟子である。ゲーゼはメンデルスゾーン、シューマンという当時のドイツのロマン主義を持ち帰り、さらにワグナー、リスト、ブラームスという同時代の音楽家の作品をデンマークで紹介し、北欧全域に影響をもたらした。自身も8曲の交響曲を残している。この北欧のロマン主義音楽の歴史からグリーグが、そしてグリーグを敬愛したシベリウスが独自の道を見つけてゆくこととなる。
また本日の三人の作曲家は現在いずれも新たな研究に基づく新全集版の楽譜が順次出版されている。
【シューマン作曲 序曲、スケルツォと終曲 作品52】
ロベルト・シューマン(1810-1856)は膨大なピアノ曲と歌曲のほかに4つの交響曲、6曲の管弦楽曲を残している。しかし<交響曲第1番>と<序曲、スケルツォと終曲>を作曲した1841年以前には完成された管弦楽作品はない。シューマンの作曲活動の全容を見ると、かなり偏りがみられる。作品1から23まではピアノ作品。そしてクララと結婚した1840年に作品24から作品36までの歌曲集が次々と生み出され、翌年1841年に第1番の交響曲が作品38として完成。同年のちにピアノ協奏曲の第1楽章となる<ピアノと管弦楽のための幻想曲>も完成。現在の第4番となっているニ短調の交響曲も当初は2番目の交響曲として同じ年に初演されている。1841年12月6日のその初演ではこの<序曲、スケルツォと終曲>も一緒に演奏された。残念ながら初演の評価は良いものとはいえず、1845年夏に改訂が行われこの年の12月6日<ピアノ協奏曲>の初演と一緒に並んだ改定版はそのまま出版された。当初交響曲として構想を練っていた<序曲、スケルツォと終曲>はアンダンテ コンモート~アレグロの序曲から始まる。これは序奏を持つ第1楽章という構成。続くスケルツォはヴィーヴォの八分の六拍子の主部と四分の二拍子のトリオ部が繰り返される。そしてアレグロ モルト ヴィヴァーチェの終曲はメンデルスゾーンの交響曲を思わせる動機と構成となっている。
現在刊行中のシューマン新全集はRobert-Schumann-Gesellschaft e. V. Düsseldorfのもとで8つのシリーズ全63巻になる予定で、出版はSchott Musik International in Mainz。前田昭雄氏(ウィーン大学名誉教授、大阪芸術大学教授、国立音楽大学招聘教授)が1985年より編集主幹を務めている。
【メンデルスゾーン作曲 ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64】
ヴァイオリン協奏曲の代名詞ともいえるフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809-1847)の協奏曲ホ短調は1838年頃の書簡に構想を相談する記述がある。作品が完成したのは1844年。これが第1稿、そして1845年に第2稿が完成。(2005年に後述の新全集とは別にベーレンライター社からこの二つの版が出版された)
協奏曲の初演は1845年3月13日、前述のニルス・ゲーゼの指揮によるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏。ソロはこの作品へ多くの助言を行ったフェルディナンド・ダヴィッドであった。メンデルスゾーンはこの作曲に非常に苦労をしていた。コンサートマスターでもあったダヴィッドにたびたび具体的な奏法のアドヴァイスを求めている。また指揮者ゲーゼにも同様に質問を送っている。協奏曲の構想を得たのち、メンデルスゾーンは音楽史に残る重要な仕事をしている。シューマンが発見したシューベルトの交響曲ハ長調「グレイト」の初演である。それは1839年3月のこと。またそれ以前からメンデルスゾーンはJ.Sバッハの音楽の復興活動に尽力していた。1843年にはライプツィヒ音楽院の設立に尽力し、ここにニルス・ゲーゼも籍を置いていた。多忙な中の作曲活動、そのためにメンデルスゾーンはこの協奏曲の初演には立ち会っていない。
1959年Internationalen Felix-Mendelssohn-Gesellschaft, Baselが設立されたメンデルスゾーンの新全集版は、中断の時期があったが現在再開。全部で7シリーズ75巻に及ぶ予定で、出版はBreitkopf & Härtel。
本日は名教授としても名高いアルゼンチン出身アナ・チュマチェンコを迎えての演奏となる。11歳でこのメンデルスゾーンの協奏曲を弾きこなしていたチュマチェンコは指揮者ストルゴードのヴァイオリンの師でもある。師弟の共演にさらに期待が膨らむ。
<シベリウス作曲 交響曲第3番 作品52>
ジャン・シベリウス(1865-1957)は近代を生きた作曲家である。1907年秋にこの交響曲が完成された。当初ロイヤルフィルハーモニー協会の依頼で春にロンドンで初演となる運びだった。しかし作曲が間に合わず8月にベルリンへ夫人とともに旅をした際に完成。この交響曲は英国の作曲家、グランヴィル・バンドック卿に献呈されている。
初演は前の年に初演されている交響的幻想曲<ポホヨラの娘>と演奏会組曲<ペルシャザールの饗宴>がともに演奏された。交響曲第3番を聞いた観客の半分はこの作品に理解不能という反応を示した。
1899年の第1番、1902年の第2番の交響曲はいずれも初演時から喝采を持って迎えられた。ロシアからの独立の気運が高まる中、民族的な響きを持ちロマン派の交響曲形式の2つの交響曲は理解が得やすかった。
当時のシベリウスは若くして国民的な作曲家として認められていた。1900年のパリ万博に参加したことでその名前がさらに広まった。一方、友人、知人との交流、生来の飲酒癖、贅沢な身なりの嗜好が若いシベリウス一家の家計を圧迫しその健康を蝕んでいた。シベリウスを生涯援助し続けたアクセル・カルペラン男爵(1858-1919)は作曲家のそのような生活を案じ都会を離れて住むことを強くすすめていた。そうして1904年に「アイノラ」として現在知られるヤルヴェンパー郊外に移り住んだ。
<交響曲第3番>はこの終の棲家となった「アイノラの家」で初めて完成した交響曲だ。
新古典派ともいうべきそのトーンは簡潔。3楽章構成でオーケストレーションも通常二管編成。演奏時間も30分程度。第1楽章のアーメン終止、第2楽章の木管楽器とチェロのグループに現れるコラール、そして第3楽章の終結部の長い反復と発展。それらの特徴からこの作品に宗教的な特色も見て取れる。同時期にフィンランドの民族叙事詩カレワラに基づく作品、<ポホヨラの娘>と<ルオンノタール>とともにオラトリオ<マルヤッタ>の作曲を進めていたシベリウス。(このオラトリオは完成しなかった)カレワラの中でマルヤッタは赤い苔桃を荒野で口にしたことから身ごもる。マリア伝説とも重なる。この交響曲に人・自然・神を見ると、一見形式が定まらない不安定な構成の交響曲全体が一つのモチーフでつながりを持って感じられる。第4番以降も絶対音楽でありながら無機質な冷たさが作品にないのはシベリウス独特の世界観が背景にある。
第3番が作曲された1907年の11月はじめ、ヘルシンキを訪れたグスタフ・マーラーと出会っている。マーラーはカヤヌスの指揮するシベリウスの<春の歌>などの作品を聴いて「北欧風」「通俗的」というレッテルをアルマ夫人への手紙に記している。マーラーは「交響曲は世界をすべて包括するもの」とし、シベリウスは「内的な動機を結びつける深遠な理論」と認識していた。彼らの直接の会話は言葉少ないものだった。
シベリウスの遺族が1982年にアイノラの自宅にあった手稿譜をヘルシンキ大学に寄贈した。ここからシベリウス研究はスタートしたといっても良い。1986年からThe National Library of Finland Research Projectsとして、はじめての全集の編纂が始まり、1998年以来Breitkopf&Hartelから順次刊行されている。
全部で9シリーズ52巻が予定されており、すでに8巻が出版となっている。この中では<春の歌>のように今まで演奏されてきた1903年の最終稿だけでなく、演奏には特別の許可が必要であった改定前の1894年版も同時に収められている。今後も<エン・サガ>や<カッサツィオーネ>など初稿と改定稿(現行版)が同時に収められる予定である。資料となった膨大な手稿譜の中には未完の交響曲第8番のスケッチも見つかっている。まだ没後50年。シベリウスの謎は21世紀の大きな宿題となっている。