北の国から未来へ~フィンランドから学んだこと
「誰もが自然に親しむ権利があり、また誰もがその自然を守り育てる義務がある」フィンランドという国家が謳っている言葉です。このフィンランドという国から1865年にジャン・シベリウスという作曲家が生まれ、今年が没後50年。このシベリウスの作品に指揮者として音楽家として多くの世界と哲学を見つけ、北欧の文化、音楽一般を専門的に勉強しそれを軸に演奏活動を展開しようと思ったのがおよそ15年前。私の音楽人生はおそらく第2シーズンを迎えています。
<北欧に出会うまで>
5歳から小学生4年生まで札幌市に住んでいました。父は当時札幌大学と北海道大学のロシア語講師。ロシア人も時折我が家に訪れ父もソ連に研修に行きました。そのような縁で自分の周りにはロシア音楽とロシアのレコードが並んでいたのです。ピアノは4歳から始めました。父や客人のソ連からの土産がいつもレコードでした。チャイコフスキーのバレエ音楽やピアノ協奏曲。そしてショスタコーヴィチ。お気に入りの交響曲はショスタコーヴィチの交響曲第5番。「未完成」でも「運命」でもなく・・・そんな子供時代を過ごしました。
<北欧音楽との出会い>
ロシア一辺倒だった私の視線が北欧を向いたのは20歳を過ぎてから。国立音大の教育学科に在籍しながら大学の授業とは別に指揮を学んでいました。あくまで将来教育者となるためのものでした。そして音大の卒業時には指揮者という役割の可能性と面白さに目覚めていました。このように指揮者という仕事を意識したのは実はとても遅いのです。多くのオーケストラ作品に接するようになり、そこで始めてシベリウスの交響曲に出会いました。20世紀に生まれた作品ながら懐かしく且つ新しく深い魅力を持つ響きにすぐに夢中になっていました。
卒業して縁あって現在の師匠、尾高忠明氏と市民オーケストラで出会いました。尾高先生の「ではいつもリハーサルをしている指揮者の人、やってみてください」という言葉で、ドヴォルジャークの交響曲第9番を指揮。それがすべての始まりの時でした。そして私は出会いのひと月後桐朋学園のディプロマコース指揮科に合格。後日尾高先生から指揮棒が送られてきました。この喜びは忘れません。
1990年9月開催のブザンソン国際青年指揮者コンクールに出場。コンサート形式の最終審査までたどり着き、コンクール審査担当のオーケストラとともに1時間のプログラムの演奏会を持ちました。1位は同門の沼尻氏。私とスイス人の男性はファイナリストとして終わりました。その翌年東京でのコンクールでは第2位を頂きプロの現場へのひとつの道が開いたのです。
その後はオペラ、オーケストラ、合唱、吹奏楽、大学の授業という複数の仕事を抱え持ち歩んでいきました。自分が好きな演奏形態の弦楽合奏のレパートリーに、英国とならび北欧音楽が並ぶようになり、北欧音楽の透明な響きにすぐに夢中になりました。そして次第にフィンランドの作曲家と作品に強い興味と魅力を覚えるようになりました。フィンランドへ勉強に行きたいという気持ちが起きたころ、1999年にラハティ交響楽団が初来日。後の師匠となる音楽監督オスモ・ヴァンスカ氏との縁をつないでくださったのが仙台フィルに客員演奏家として派遣されていたライナー・クイスマ氏というフィンランドのティンパニー奏者。当時仙台フィルで副指揮者をしていた弟子の佐伯君がクイスマ氏のことを知らせてくれ、当時の音楽監督外山雄三氏のご紹介をいただき実現した御縁でした。この皆さんのおかげでオスモ・ヴァンスカ氏とコンタクトがとれてラハティ交響楽団へ研修の許可を得られたのです。
文化庁の審査が通り、2000年10月から1年間のフィンランド滞在は充実の日々でした。同時に多忙であった日本での音楽活動から一時休暇を頂いた日々でもありました。静寂の国で日本を振り返ると、なんと騒々しい国なのか・・・そんな思いもありました。常に騒音がそばにあった都会生活は相当に耳を疲労させていたということを実感しました。
<自然を友として>
札幌で過ごした子供時代に自分に備わったであろう感性。それは人間は自然の一部であるという教えだったと思うのです。当時の札幌はオリンピック前の未開発の地が多い状態。まだ畑が多かったので、冬は雪原が広がっていました。東北出身の母の血も影響していたのでしょう。誰の足跡もついていない雪原に一人で横たわることの気持ちよさ。ピアノの練習のあと一人で空を見ると、降りしきる雪の中自分が上昇していくような気分になります。同じ形が一つとしてない雪の結晶も楽しみ。一人でいても不思議と安心感に包まれていました。
北国の夏の美しさは言葉にできません。ほとんどじっとしていなかった自分は毎日土の香りを浴びていました。生傷も絶えませんでした。自然の恵み、山菜の味を両親が教えてくれました。木々から直接果実を頂くこともたびたび。農家の乳牛から搾りたての牛乳を購入していました。それらの世界をいまフィンランドで追体験している自分を感じています。
そしてその風景はシベリウスの作品をはじめとして北欧の音楽作品の中に描かれているのです。
白夜という言葉が知られていますが、実際に白夜に初めて出会った2001年。それは本当に価値観が変わる時間でした。演奏会終了の夜10時はまだ太陽が輝いています。真夜中を過ぎて少しだけ地平線に沈む太陽。夕焼けが見られます。そしてすぐに日の出を迎えます。朝焼けです。夜の闇が全くないおよそ一ヶ月。この期間は人々のタイムテーブルは大いに変わります。眠れない人もでてきます。この永遠の時を感じさせるような夏の日々。この大きな時間の流れは、シベリウスの作品に随所に出てきます。同じような響きの持続、中欧の音楽では考えられないようなフレーズの長さ。淡い響きの中にかすかに聞こえる鳥のさえずりのような断片的な音、音楽理論的には分析ができないような形式の作品に「理解不能」を示す音楽家もいます。しかしひとたびこの北欧の自然に身をおけばその音の意味を即座に感じることでしょう。
フィンランド人はこの白夜の期間はほとんどの人は休暇となります。シーズンは秋から始まりますので、年度末がこの夏至の前です。そしてプロジェクト好きな活動家のフィンランド人は夏の音楽祭を企画し仲間と多様な企画を繰り広げます。
人々は5月から6月にかけて本当に上機嫌になります。日差しがみるみる明るく長くなります。半年に及ぶ長い冬には太陽を浴びる時間は極端に少なくなります。日照時間の不足は大いに健康に影響を及ぼします。太陽が出ているうちにしっかりと浴びるという習慣が浸透しています。極寒の冬でも日差しのある日は外で日光浴をします。一昔前の日本のように天候の話をよくして、体に良いこと悪いことが日常の会話の多くを占めます。これがIT産業で世界のトップをゆき、情報社会としても先頭をゆくフィンランドの一方の姿なのです。子供たちも動植物の名前をよく知っています。教育でそれは義務とされています。非常にバランスよく人間が地球の中に生きているということを感じさせられる社会です。
<独自性>
北欧の文化や音楽芸術に対して強く感じるのは「未来への音」ということ。クラシック音楽という文化が入ってきて、まだそれほどの時間が経過していないことが理由の一つです。フィンランドは特にスウェーデンとロシアという両大国に挟まれ独自の道を歩み始めたのはわずか1917年から。それまでのフィンランドの文化というものは両大国の影響を受けながら、オリジナリティを大事に静かに育んでいました。1865年生まれのシベリウスという国民的大作曲家以降にクラシック音楽の発展があるということを考えると、フィンランドと日本の西洋音楽の発展の時期は同じような時間経過をたどっています。しかし現在のフィンランドと日本では大きな違いがあります。
私は1992年の夏から秋にかけて短い間でしたがヨーロッパに滞在しました。クラシック音楽が生まれ育まれた土地の中で体感した時間は貴重でした。それは逆に日本人である自分を強く意識した時間でもあり、自分の未来の音楽人生への道を考え直す時間でもありました。「博物館の館長のような音楽人生は送りたくない」それが短期ではありましたがヨーロッパの中で暮らして得た結論。その思いは現在も変わっていません。「過去の遺産を大事に守りゆくだけではなく、現在の音をそこにつないで、さらに新しい音楽シーンを生み出す音楽家でありたい」1992年の結論です。博物館の館長という言葉を借りましたが、クラシック音楽は伝統芸能ではありません。また大事にその形を保存して現状維持に努める骨董品のようなものでもない。人の手を経て時代にもまれ変わりゆくものだと思います。その活動に深くかかわり未来への道を先頭を切って歩いてゆく使命を、指揮者という役割は持っているのではと思っています。
フィンランド人の指揮者が語っていました。「自分たちはアメリカ人のようにアメリカ音楽は演奏できない。でもそれでよいではないか」。オリジナリティを大事にして、独立精神の旺盛なフィンランド人らしい言葉です。そしてそのことが現在世界で活躍するフィンランド人音楽家を増やしている一つの大きな要因なのです。中欧が長い年月の中で育み継承してきた西洋音楽の一つの形を「慣習」や「お決まり」「伝統」というものにとらわれずに楽譜を読み音にしていくフィンランドの音楽家たち。その中から時として名曲の新しい姿、新たな魅力が生まれてくることがあります。慣習というのは知らず知らず当事者の中に生まれる「澱」や「膿」というものが溜まってきます。それがまた芸術作品の場合一つの味を持つこともあります。しかしいつしか「本来の姿」を忘れることもあります。そのような時、新しい視点と強い独自性の意識を持って演奏を生み出すフィンランドの音楽家は一つの起爆剤となって世界の楽壇に歓迎されたのです。
逆にシベリウスをはじめとするフィンランドの、そして北欧の作曲家たちの言葉は世界に伝わっているのでしょうか。これもまたおもしろい現象があります。「シベリウスの作品を最も理解してくれるのは日本だ」と語るフィンランドのオーケストラの皆さん。そこには音楽文化だけではない民族や言語のつながりも影響しています。先に書いたようなシベリウスが描く静寂の音は日本も古来文学に詠み、和楽器の世界でも音につむいでいた世界でした。感性が似ているといわれるフィンランドと日本。シベリウスの作品を好きな人が多いのも納得できます。
フィンランドのほかの作曲家の作品も、同様に西洋音楽のこれまでの語法にはないものが見られます。「常識では考えられない」という言葉で判断する人もいます。しかし音楽は西洋音楽だけではありません。現在のクラシック音楽は非常に多くの音楽シーンを含み大きく幅を広げています。そこからまた普遍的な次の時代への音楽の世界が誕生しようとしています。古来の民族音楽を取り込んでいったように、それぞれの民族の独特な世界観が作品の中に描かれるようになっても理解される時代になっているのではないでしょうか。
私はこのフィンランドの在り方に、日本の音楽界の一つの未来の姿を見ています。我々の勤勉さは驚くほど短期間で異文化を理解する能力を得たと思います。多くの先人の努力で海を越えた文化の流入が途切れることなく続き、多くの音楽家が自由に西洋の文化と行き来をしています。その中で日本の作曲家たちもかなり早い段階から日本独自の作品を生み出してきました。しかしその作品を日本の聴衆が認めるには少し時間がかかっています。日本古来からの音楽文化と西洋音楽の融合は様々な魅力ある作品となって残っています。しかしそういう音楽文化に対して、ともすると日本人自身がどこか遠慮がちに接する時代がありました。ここへきて、ずいぶんその流れが変わっています。現代を生きる作曲家はもちろん、最近は100年をさかのぼり日本が生んだ作曲家、作品を取り上げそれを楽しむ機会が増えてきています。我々の本来の文化への自信と見直しのような意識が生まれていると感じます。
己を知らないものが他者を理解することはできない・・・よくいわれる言葉です。他者を深く理解するためには己の価値観判断力がきちんと備わっていなくてはできないことだと思います。フィンランドが幼いころからの教育に「他人を理解する力」「自分の言葉をきちんと伝える力」を課題としています。その教育方法は世界的に注目を浴びていて、「フィンランドメソッド」への研究が盛んです。理解には想像力が必要です。そして同時に自分の言葉で語る能力、基礎力が必要です。フィンランドの音楽教育も非常に基礎を大事にします。良い耳を育てること、良い音を生み出す判断力を持つこと、それらが技術の習得ときちんと連動しています。もともと静寂を大事にする文化を持つフィンランド。人の話を非常によくききます。多くの人が集まる場でも、誰かが話し始めるときちんと耳を傾けます。日本の政治家の争論のような様子にはなりません。オーケストラでもほかのセクションの音をよく聞き演奏します。それはオーケストラの機能性にもプラスに働きます。
良い耳を持ち、独自性を確立する強い魂を持ち、基礎をしっかり磨いた音楽家はどこへ出ても力を発揮します。フィンランドと同じように、西洋音楽の伝統ということに縛られない距離にある日本にとって、21世紀にクラシック音楽界に提示する音楽文化は山ほどあるように私は思っています。もともと独自の文化を持つ身、積極的に異文化とのコラボレーションを作り上げること、またお互いの感性をぶつける場を作ることはクラシック音楽全体にとっても良い結果をもたらすように感じます。フィンランドで日本の作品を紹介すると聴衆も演奏家も作品への強い興味を示してくださいます。その現場での感触は「未来がある」という力強く明るいエネルギーを味わっています。
忍耐強く(SISU) サウナを愛し(SAUNA) シベリウスという素晴らしい作曲家を生んだ(Sibelius)3つのSを大切にするフィンランド。その国から多くのことを学んでいます。そして音楽活動を続ける中でますます自分の国を知り大事にしたいと思う日々です。