音楽のプロはどうなのだろう。最近アマチュアなのかプロなのかわからない演奏家も多くなってしまった-という言葉も聞くが、プロであることを維持する人、プロを目指そうとする人はもっともっと厳しくあらねばいけないと自戒をこめながら思う。厳しくあることが楽しみに感じられないとプロの世界は生きていけないであろう。でも最近は厳しくすべきポイントがずれている人も多いのかもしれないが・・・
プロを目指す若き音楽家たちと日常接している自分は、そのあたりのことは日々考えさせられる。大学とは何するところぞ・・・という問題になるのだが、結局はプロとして社会に送り出すことなのだろう。特に音楽大学という専門性の高い分野の大学は。どんな形で専門の分野に従事するかはそれぞれである。演奏家も指導者も両方立派にプロだ。研究者もまた専門分野を他の分野にリンクさせて新しい仕事としていくことも、立派にプロだと思う。
大事なことは、自分で歩いていける基礎力をしっかりと会得することと応用する能力と知識の幅と経験を積み上げていくことだ。それを大学在学中に豊富に学生に機会を与えなくてはいけない。机上の空論で終わっては実技の音楽は意味がない。鍛えぬかなくてはいけない。だから演奏の機会を多く与える、実践が大事だ。その環境作りも大学の責任。カリキュラムの設定もそれにのっとってなされるのが望ましい。
欧米の大学は卒業が厳しい。これは当然だ。やる気のある人間、可能性のある人間には広く門戸を開く。しかしそれが本当に社会に向けてプロとして巣立つことができるところまで育ったかどうか・・その判断は大学という機関が行いそしてOKの場合卒業させる。その判定に対しても本来は社会から大学が厳しく見られるべきものだ。だから卒業判定は厳しくなる。専門性がもっとも高度なレベルで磨かれるところが大学。その本来の理想的な姿をもう一度問い直す時期に来ている日本。少子化ということだけではなく、本当に日本の根幹が危機的状況であるから、大学は皆大きく変革の時を迎えている。学生はお客様ではない。我々がなすべきことは、学生を大きく育て上げることだ。そしてプロとして社会に先に関わっている我々はその厳しさを身をもって教えてあげること。そのためには自分自身が本当にプロ意識を持っていなくてはできないことなのだろう。
ほんの一昔前はそういう雰囲気が日本の大学にもあった。大学だけではない、すべての教育機関にあった。教員は厳しく、誇りを持って自信を持って学生や生徒を叱り育ててきていた。近年家庭のしつけがなされていないという非難と同時に、教育機関での厳しい姿勢がなくなってきたのも確かなことかもしれない。厳しいと学生が逃げていくという、サービス業にあるようなある種の怯えの姿勢もうかがえる。事実大学へ文句をおっしゃるご家庭も多くなっている。しかし学生をしっかり教育せずに社会へ送り出し、その学生が力不足で社会に迷惑をかけたとしたら・・・技術が不足であることで人命にも関わる専門分野もあるわけだが・・・考えただけで恐ろしい。
つい先ごろ医学の世界でその問題が発生していた。手術という特殊な技術に関する未熟さがもたらした「医療事故」とされる問題だ。経験不足を実践で補うしかない分野には、監督義務も発生する。ひとり立ちさせられるか否かを責任をもって判断するところまで教育の一環であるということ。教育機関の中だけにいると、単なる実習という感覚になってしまいがちだが、医学の場合それは社会を関わり、人命と関わっている。もっとも厳しくあるべき分野であろう。だから教育費も膨大であるし、教育年数も他よりもはるかに長いという認識を私はもっている。お金をたくさん払ったからすなわち医師になれるという話ではないと思う。
音楽の世界、指揮者の世界も同様。指揮者は最終的に一人で判断し一人で大きな集団を相手に仕事をする。指揮を上手にできる云々の話だけではすまない。多くの種類の能力が必要になる。幅広い知識と見識が求められる。これは育つのに時間がかかる。経験も必要。しかし若手は初めからそれが備わっているわけではない。やはり実践で痛い目にあわない限り学んでいけない。指揮法というものは実践で学ぶしか方法はないと今は考えている。必要最低限のことを教えればあとは現場へ若手を放り出し、それを監督するという方法しか育てる手段はないと思っている。そして同時に指揮者は自分への厳しいモニター能力が必要だ。その能力も経験を積めばどんどん磨かれる。監督者に指摘をされずとも次第に己の状況が判断でき、対策をたてられるようになり、自分の道をみつけてゆける。
厳しい教育・・・これらのことは実はフィンランドでも学んだことの一つだ。フィンランドという国家はある時期から人が財産である、すなわち人を育てる教育が大切であるという考えの下、教育に非常に力を入れてきた。その結果・・・・昨今の状況で一目瞭然である。日本と同じ広さの国土に人口は520万人余り、国家が強くなるためにはこの少ない人口の一人一人が財産であるという意識は当然かもしれない。皆さん本を良く読む。新聞を読む、意見をしっかり持っている。無駄なテレビ放送はない。学習することに関しての高い意識と誇り。それらを常々感じる。専門家であることへの誇りが強く伺える。単に立場を守るというだけの専門家ではない。本当の力を持っていることへの自信である。そして謙虚だ。
世界中のどこにでも見られる椅子取りゲームに終始する専門家の姿はこっけいだ。ひとたび椅子を確保したら、でっぷりと身体にたくわえをつけて二度とそこから立ち上がれないようにしてしまう。誰が動かそうとしても・・・そんな専門家の姿が多くの分野で見受けられる。その守りの姿勢が後進の育成を遅れせ、歪んだプロ意識を植え付けてしまう。そういう姿は実はどの分野にも多いのが現実。
権力をつかもうとする欲がいろいろなことを後押しするということはある。ある種の権力の中で、秩序を持って物事が進んでいくという現実社会はある。経済界でつい先ごろ繰り広げられた壮絶なパフォーマンスはまさにその縮図。音楽界も夢を壊すようで申し訳ないが、実情はどろどろの世界である。虚構に満ちた世界でもある。それでも音楽という音の神秘が作り上げる素晴らしい世界にプロ意識を持ってまっすぐに人生をかけている人も多いのは事実。どこにプロ意識を持つのかは個人の自由であるが。私はやはり指揮者という役割で音のプロ、音楽のプロでありたい。それしか考えられない。その姿勢が社会に必要のないものであったり、作り上げる世界が受け入れられないものであれば消えれば良いのである。能力不足、生まれる時代を間違えた、お呼びじゃない・・等等いろいろ言われるであろう。言われてもやれることをとことんやるしかないのが人生の宿命。それが己の道なのだ。終わりの無い道であろうが、永久に地中を這いずり回っているかもしれないが・・。一人ぐらいモグラのような指揮者がいても邪魔にはなるまい。
2005年4月27日