8月30日から9月9日まで4回目のフィンランドの秋に居た。何時にも増して寒い秋の始まり。すぐそこには冬がきているような風が吹く。見事な晴天の時は柔らかな香りが陽射しに混ざって限りなく幸せな時間を感じていた。
秋の初めは13年前ブザンソン国際青年指揮者コンクールを受けたことを思い出す。あれは本当にどたばたのコンクールで非常におもしろかった。私がファイナリストになった第40回の1位は沼尻竜典氏。ファイナルはあの年は3人。日本人2人とスイス人の男性だった。ブザンソンは1位だけを出すコンクールだった。記録にはファイナリストの名前までは残されているが、実際には受賞のご褒美があるのは1位のみというコンクールだ。現在のブザンソンの国際青年指揮者コンクールは形式が変ったようだ。昔は書類審査に通ると全員現地に集合。そこで予備選考になるピアノでの指揮審査やソルフェージュなどの特別審査があった。現在は世界各地で予備選考があり、選抜メンバーがブザンソンでの審査に臨むそうだ。因みにオスモ・ヴァンスカ氏は丁度私の10年前にこのコンクールで松尾葉子氏と1位を分け合っている。開催事務局との会食の中で毎年の開催なので運営が大変であることを当時主催者がこぼしていた。
そのブザンソン、書類審査は何度か送らないと通過しないという先輩のアドヴァイスを受け、とにかく送ってみたのが1990年。何を間違えたか審査に通過してしまい、8月末から現地での審査に乗り込むことになった。全く準備をしていなかったため、楽譜の準備や当時の仕事のやりくりなど非常に慌てた覚えがある。フランス語は苦手だ。書類の解読にも非常に手間取った。これが後々悲劇となるのだが・・。
ヨーロッパへの旅はもちろん初めて。飛行機もロングフライトは初めて。そこへ遅延が重なった。ドゴール空港に到着したのが予定の数時間遅れ。列車を乗り継いでブザンソンまで行く予定だったが、不可能であることがわかった。何もわからないパリ。フランスのガイドブックだけは持ってきていたので、それに従ってなんとか宿を探す。片言のフランス語と英語で料金の確認。すでに夜はふけている。部屋に落ち着くとさすがに疲れと心細さに情けない想いをしたものだった。ブザンソンの予約した宿になんとか到着が遅れることを伝え、明日の列車の時刻を確認して爆睡。
翌朝は6時頃宿を出た。ガラガラというトランクの音がやたらと響く。ブザンソンはスイスとの国境に近いところにある。フランスは大きい。パリから東西南北に列車が出発していく。列車の確認とチケットの購入を一体どのようにこなしたのか正直のところ記憶にない。そのくらい焦っていたのか・・・・TGVというフランスの新幹線に揺られて数時間。リヨン方面に向かっていったと記憶している。途中乗り換えてブザンソンに到着。天気が良かったことだけが救われた。
なんと小さなかわいらしい街!それが第一印象。御伽噺のような趣で城壁に囲まれた小さな街。石畳はトランクが運べず披露困憊。予約したホテルの場所を3人の年配の方に尋ねながら歩いて探した。皆方向をそれぞれ逆に教えてくれた。一体誰が正しかったのか・・・・。英語は絶対にしゃべらない。意味はわかっているようだったが、決して英語では返さない。見事なものだった。
到着までの緊張とどたばたに逆に助けられたコンクールだった。エントリー会場では数人の日本人と顔を合わせた。何人か知っている人もいた。もちろん沼尻氏は同門。この時点で40名ほどのエントリー。審査方法が告げられ掲示を確認する若い指揮者の仲間達。コンクールなのだが、不思議とリラックスして雰囲気を楽しんでいた私。到着できたことが何より嬉しかったのだから・・・・。
翌日から始まった。初めの審査はピアノ2台でのストラヴィンスキー「春の祭典」の最終場面から。ひたすら指揮のテクニックの審査だったのであろう。そして全員を集合させてのソルフェージュの試験。これは理論と耳の試験の両方があった。素晴らしい耳を持っている沼尻氏は余裕の様子で、終了後出題テーマを使っての即興演奏など休憩時間に披露していた。
この予備審査通過はおよそ半分。そこまで絞られてしまった。この時点で私は大変な過ちに気づいた。ファイナル審査では課題曲が出ていたのだが書類に書いてあった4曲からの選択であると読み取った私は完全な間違えだった。すべて、指揮をしなくてはいけない。当然楽譜も持っていない。準備もしていない。これはさすがに焦った。ここで大いなる助けを得た。音大時代交流のあった、当時ウィーンで勉強を続けていた指揮者が自分のスコアを貸してくださったのだ。一生このことは忘れない。感謝してもしきれない。
この後の審査は約10日間に渡って行われた。ベートーヴェン、モーツァルトの交響曲の一部をリハーサル審査。もちろんオーケストラを相手にである。ロワールシンフォニーであったと記憶している。その後にコープランドの小品でいわゆる「間違え探し審査」を行う。ところが指定の間違えよりも演奏上の間違えが多くて目的の審査はできず、単なるリハーサル審査になってしまった。作品は「劇場のための音楽」だったが、このオーケストラはこのタイプのアメリカの作品はどうも苦手であるらしい。
ファイナルの前にはオペラ審査も入る。ピットに入ってプッチーニ「ボエーム」の第3幕の一部を演奏する。初めてのピットだった。とにかく楽しかった。ファイナルの時点で3人に絞られた。ここまでは、ひたすら信じられない奇跡だと言う気持ちだけで進んできた。多くの同世代の若者と競うことも初めて、海外のオーケストラを相手にするのも初めて。目を丸くしているうちに進んでしまったといっても過言ではない。
ファイナルだけはリハーサル時間を与えられる。2日間に分けて2時間ずつだったと記憶している。ウェーバー「オベロン序曲」サンサーンス「序奏とロンドカプリツィオーソ」デュティーユ「交響曲第2番から」ラヴェル「ダフニスとクロエ第2組曲」これを3人がそれぞれすべてコンサートとして演奏する。オーケストラは3回演奏しなくてはいけない。休憩を取るとはいえ、演奏も審査も大変だったことと思う。
リハーサルは当然フランス語・・しかしできない。リハーサルに備えて伝えたい内容を片端から調べる。そして伝わらないと英語に変えるがあいにく小節数さえ英語で通じない。コンサートマスターが通訳をしてようやく伝わる。フランス語の数字を嫌になったのはこのときからだと思う。審査委員長は「しゃべるな!振れ!」とリハーサルの時に叫んでいる。そしてファイナル審査。会場は音楽祭の一環でもあったのでかなりのお客様の数。とぼけている私は本番が何より楽しかった。目の前の言葉は通じないがタクトでは伝えられるオーケストラと1時間何ができるかやってみよう!という開き直りの気持ちだった。
至福の時間。特にサンサーンスのソリスト、オリビア氏との共演が非常に楽しかった。自由自在の語り口にこちらも遊ばせてもらった。ところが遊びが過ぎたのか、ダフニスとクロエの最終部でうっかり1拍振り間違えた。一瞬の隙だった。それ以外は非常にフランスの響きの中で自分が楽しんでいた審査時間だった。
結果は前述のとおり沼尻氏の第一位。残りの我々2人は賞状と記念の時計を頂いた。これは今も大事に使っている。審査委員長のジョン・ネルソン氏からは「君はリハーサルのやりかたを勉強しなさい、後はノープロブレム!」この言葉はかなり長い間自分の課題となっているかもしれない。 この時ファイナルの前まで一緒に戦っていたフランス人のオリビエ・グランジャン氏は翌年の東京国際音楽コンクールで見事1位を獲得している。フランスの借りを東京で返した!ということになるのだろうか。私は第2位を頂いた。
あれから13年、実に様々な現場を通ってきている。失敗も多い。ステージで見事に転んだこともある(痛かった)。リハーサルが思うようにできず、悔しく情けない想いもたくさんあった。若い指揮者は皆通っている道だ。でも決して逃げ出さず未熟な自分と向き合うしかない。喧嘩もあった。しかし自分の中で積み上げているものが育っている実感は今非常にもっている。誰よりもゆっくりの歩みかもしれない。同僚にはその点を指摘される。自分の弱さかもしれない。前進と後退を繰り返しての少しずつの歩み。だが、今未熟ながらに自信が芽生えていることを実感している。今の自分からなら何かをはじめられるかもしれない。諦めないことだけが長所。マイペースのB型
2003年9月27日