新田ユリ Interview | ||||||
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| 菅野: |
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1.指揮者を目指した経緯 | ||||||
| 菅野: | はじめに、新田さんがそもそも指揮者になりたい、あるいはなろうと思われたその動機、きっかけを伺いたいと思います。最近では本格的な女流の指揮者の活躍が目立ってきました。たとえばベテランの松尾葉子さん、天沼裕子さん、西本智実さんなど。それに続いて新田ユリさんが私の目に留まりました。しかし新田さんがまだ少女だった頃には、女性にとって指揮者というのはそんなに一般的ではなかったと思います。それゆえまず指揮者を目されたその動機をお聞かせ下さいませんか。 | |||||
| 新田: | そうですね、おそらくいま活躍していらっしゃる女性指揮者のなかでは、指揮者を意識して志したのは、あるいは一番遅いかも知れないですね。年代的には私は天沼さんの数年下に当たるんですけれども、 | |||||
| 菅野: | 西本さんより上ですか? | |||||
| 新田: | ええ。もう、かなり上です。(笑) | |||||
| 菅野: | それが一番勉強になりますね。我々の世代もそうだったんですが、昔は手書きで写譜している間にいろいろ音を覚えたり、考えたりしました。コピーではなんにも自分の中には入らない。その違いは大きいですね。今の若い人には通用しないお話でしょうがね。 | |||||
| 新田: | そういうことを3年間ずっとやってきまして、顧問の先生がご指導なさっていたんですけれども、そこで副部長という立場だったので時々下稽古をするために指揮の真似事はその時やっていたんですね、見よう見まねで。 | |||||
| 菅野: | それがいま、アマチュアのオーケストラを相手する時にすごく役立っているんでしょうね。 | |||||
| 新田: | それはあります。やっぱり技術の足りない人たちがどう作っていくかというノウハウを体で自分が知っているというのは大きいと思います。その時は自分の憧れるポジションというのはコンサート・マスターだったんです、実は。子供の頃、N響の定期会員だったころに…。 | |||||
| 菅野: | もうその頃N響の定期会員になっていたんですね。存分にいい音楽といい指揮者を聴いて育ったんですね。 | |||||
| 新田: | 特にホルスト・シュタインさんが大好きでして。 | |||||
| 菅野: | おおいに共感します。シュタインはそれこそマエストロ中のマエストロですね。 | |||||
| 新田: | はい、素晴らしいと思っていました。ずっとその時代を見てまして、その頃はコンサート・マスターは田中千香士さんで、拝見していまして、指揮者にも目は行っていたんですが、どちらかというとコンサート・マスターに注目していました。子供ながらに、あそこがまとめているんだろうなあ、あのポジションは面白いぞ、と思っていました。憧れのヴァイオリンを高校でやっと手にしたということもあって夢中になったわけです。付け加えますと、ヴァイオリンと同時に弓道部にも所属して、弓を引いていました。弓の掛け持ちという状態だったわけです。ただ、両国高校は進学校で、私はそんなクラブ三昧の生活をしていたのでかなり落ちこぼれだったのですが…(笑)。そこから音楽へ行くという選択肢というのがなかなか思いつかなかったんですね。やっぱり自分の中で音楽というのは、長い付き合いにはなるだろうけど、職業というイメージがあまりなかったもので。ですから、語学にも興味があったのでそちらを選択するか、または音楽の道で音楽の教師になるか、ということで高校3年のときにずっと悩んでいまして、あるとき、オーストリアでピアニストをなさっている今井顕さんという方のリサイタルを聴きに行くことがあって、リストのソナタを聴きまして、それで決めた、というのが本当のところですね。 | |||||
| 菅野: | 楽器の性格としてそうですよね。弦楽器とか、ギターなどは音を鳴らしただけで、何か伝わるものが来ますよね。ピアノはね、鳴らしただけでは音響ですからね。これは問題になる発言かもしれない。(笑) | |||||
| 新田: | その方のその演奏を聴いて、あっ、これだ、と思って、音楽を専門にするという道、実際それで演奏、とは思ってなかったんですけど、あくまで教育音楽、音楽教師ということで、国立音大に入りました。結局イメージとしては自分でいつか母校の高校に戻ってきてオーケストラを指導していきたいという思いが非常にありましたので教育科を選んだわけです。で、国立に入りましたら、ちょうど都合のいいことに指揮を勉強するサークルというものがありました。 | |||||
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| 菅野: | 小松先生の薫陶を受けたのですか! | |||||
| 新田: | ええ、一番始めはそうなんです。ですから、もうみっちりと斉藤指揮法を叩き込まれまして、小松ゼミという形で毎年夏、冬に合宿があってアナリーゼの勉強とかそういうのを全部叩き込まれるわけですね。そういうのを4年間、自分の専門とはまったく別のところでやっていましたので、4年生のときにまた悩みまして、教員採用試験をこのまま夏に受けるか、割と先生に可愛がって頂いていましたので少し深い勉強に入るかということでした。それで夏に教員採用の受験票を返しまして、そこで決心が決まりました。ただ、そこで改めて指揮科に行くという道は見えていませんでしたので、小松先生の下で勉強を続けるということだけでした。 | |||||
| 菅野: | 尾高先生の目に留まったわけですね。すでに小松先生の薫陶を受けていれば、かなり確かなものになりましょうからね | |||||
| 新田: | それで、そのとき尾高先生が後で「棒」をプレゼントしたいので住所を教えてくれ、ということで。で、本当に後で尾高先生からタクトが送られて来たんです。 | |||||
| 菅野: | よっぽど気に入られたんですね。 | |||||
| 新田: | その時点では先生には内緒にしていたんですけれども、私は桐朋のディプロマを受けなおしているちょうどひと月前くらいの時で、非常に励みにもなりました。受けて合格しますと、4月に入学してからどういう先生に就きたいですかと聞かれるんですが、尾高先生を希望しました。先生は当時かなり多くの生徒がいたんですけど覚えていて下さいまして、取って頂きました。それで桐朋に入学したのが1987年ですね。ですから、そこから、いわゆるプロフェッショナルな道で指揮というコースに接したのは。ほんと、とても長い道のりだと思います。指揮を選択するのには。よく同僚の指揮者の話でも、たとえば、誰々の演奏、誰々の指揮ぶりに憧れたとかいう話がありますが、そういうことがあまりなかったんですね。以前に、むしろオーケストラの内側から見ていた時間が非常に長かったので。 | |||||
| 菅野: | 私は、新田さんのコンサートはまだ一度しか聴いてないですけれど、現場の整理が非常にうまいし、知っておられる。一度のコンサートで充分に評価できるものがあったんです。これは将来いろんな可能性が見えるる人だな、と思いました。 | |||||
| 新田: | 恐いですね。見えてしまうっていうのは。 | |||||
| 菅野: | いや、音楽家って裸にならなきゃだめですよ。気取ったり、ポーズの連続でお客をだましたら、それはうわべだけのものですからね。小松先生と結びつこうとは思っていなかったし、尾高先生にそんなに気に入られようとは。 | |||||
| 新田: | 私は結局ディプロマとして2年在籍したんですけれども、3年目、ディプロマ試験を受ける頃、先生がBBCウェールズ響の仕事が忙しくなった時で、御自身でも学校に来られなくなったことを非常に気にやんでらっしゃいまして、学校は申し訳ないけど辞めるということになったのです。私も結局ディプロマの卒業試験を受けていなので、正確には卒業していることにならないんですけれども…。 | |||||
| 菅野: | いいじゃないですか。岩城宏之だって芸大中退です。本当の音楽家になるのには学歴は根本的な関係はない、卒業も中退も。そういうことについては堂々と胸を張ってよいでしょう。 | |||||
| 2.留学先にフィンランドを選んだ理由 | ||||||
| 菅野: | 次にもう一つ私がお尋ねしたい、また「フィンランディア」の読者が知りたいと思われることは、指揮のコースを目指した時に、どうして留学先がフィンランドなのか。ヨーロッパから見ると北辺の地です。ウィーンやイギリスじゃなくて、なぜフィンランドを選ばれたのか、それをお聞かせ下さい。 | |||||
| 新田: | 実はその前にもう一段階ありまして、ちょうど10年くらい前になるのですが、日本のコンクールで賞を頂いたあとすぐ、ザルツブルクに半年くらい、留学とは言わないですね、遊学というかたちでザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団で研修をさせて頂きました。 | |||||
| 菅野: | ハーガーのもとで? | |||||
| 新田: | いいえ、もうちょっとあとです。ハンス・グラーフが首席指揮者でした。その時にはザルツブルグを中心にドイツ圏を歩きまして、あとベルリンで小澤征爾さんの仕事を見せていただいたり、といういわゆるいちばん一般的なコースですね、学校に入ったわけではないですが、見て経験しまして、どうもその時に違うな、という感覚を持ってしまったんですね。もちろん素晴らしい演奏にたくさん接しましたし、懐の深い文化もじっくり味わいました。説明はうまくできないのですが…。あともう一つは、これは非常に反感を買ってしまうかもしれないんですが…。 | |||||
| 菅野: | 今は率直におっしゃって下さい。 | |||||
| 新田: | 自分の中で、非常に比喩的な言い方ですが、「博物館の館長にはなりたくない」ということがすごくあったんです。もちろんああいう豊潤な文化、長い年月をかけて積み上げられたものの重さは認識していて非常に大切だと思っているんですが、やはり我々、違う血を持っている、違う文化を持っている者が、西洋の音楽、これは自分のなかでは本当はあくまで一つの言葉でしかないと思っているのですが、それに接する時に、その総ての歴史を背負い込むには、おそらく自分は年を取り過ぎていると思いましたし、現地の人とくらべればハンディキャップがあまりにも大きいと思います。 | |||||
| 菅野: | それはイタリア人やドイツ人とは比べようも無いですね。それに気がつかない人もけっこう多いですけれども…。 | |||||
| 新田: | そうかもしれませんね。もちろんそこに長く居を置いて、根を据えて活動しているアジアの人もいっぱいいて、それはそれで意義があると思っています。しかしたとえば歌舞伎を修行しに来た外国人がもしいたとしたら、そういう人が持つであろう思いで、伝統芸能的に文化を見守る一員となるか、それともそれに文化の違いを理解したうえで自分の独自の方法を歩み出して融合させながら道を作る2つのタイプがあると思うのですが、自分は後者の考え方で、指揮者として博物館的な活動というのは出来ないな、というのが非常に強くありまして、そこを去ったわけです。 | |||||
| 菅野: | ザルツブルクを、ドイツ音楽の伝統の地を、ゲルマンの地を去ったわけですね、おおげさに言うとね。 | |||||
| 新田: | それからしばらく日本でいろんな活動をしていて、4年ほどたった頃でしょうか、偶然にデンマークのニールス・ゲーゼという作曲家の1番のシンフォニーを…。 | |||||
| 菅野: | 1番とはめずらしい。誰もやらない曲ですね。 | |||||
| 新田: | そうなんです。ご存知のように私は以前中村ユリで活動しており、その前のパートナーからメンデルスゾーンに関連する著作でその名前を見つけたと教えられ、作品を紹介してもらったのですが、非常に面白い。メンデルスゾーンのようでもあり、シューマンも聴こえてきて、ブラームスにも繋がるところも見える。この人はどこの人?という驚きでした。 | |||||
| 菅野: | あなたの北欧のレパートリーの最初はデンマークだったのですね。面白いですね。 | |||||
| 新田: | もともと私は非常にメンデルスゾーンが大好きな人間で、ニールス・ゲーゼとも関係があるんですね、メンデルスゾーンは。作風はもちろん似ておりますし。さっそくゲーゼの1番、5番、6番、8番などを、アマチュアなんですけれども、演奏する機会を作りまして、順番にやったのですけれども、それと時期を同じくして、例の北欧アンサンブルというのを立ち上げまして、活動したんですね。そのころから北欧5ヶ国の作品にトータルに目を向けておりました。 | |||||
| 菅野: | その頃からそちらに向いていたんですね。 | |||||
| 新田: | そうです。弦楽のための作品が非常にたくさんある地域ですね。その辺からも自分が接することが多かったので、どんどん窓口が広がっていきました。その後北欧アンサンブルからも離れ、現在の名前で活動をすることになりましたが、当時、北欧5ヶ国についてその土地の言葉と空気を知りたかった、やはりそれを一度まとめて長い時間をかけて勉強してみたいという思いがあって、どうするか、ということで大きく分けてゲルマン系のスカンジナヴィアかフィンランドか、という選択をすることになりました。それまでいろいろ手掛けてきた結果は、やはり自分の中の血としてはフィンランドに圧倒的に傾くなあと、これは感覚でしかないのですが、ということでフィンランドを選んだんですけれども。フィンランドのラハティというところに行けるきっかけになったのは…。 | |||||
| 菅野: | それが実は今日お聞きしたい次のポイントで、どうしてヘルシンキではなくてラハティだったのですか。 | |||||
| 新田: | ラハティになったきっかけというのは、4、5年前に仙台フィルにフィンランドからティンパニストのライナー・クイスマさんがいらしたんですね。音楽監督の外山雄三先生と同世代で、先生はわりとスウェーデンで仕事をされることが多く、つきあいがあって、この人は、ということで連れてこられたらしいんです。その方の存在を私の弟子で当時仙台フィルの副指揮者を勤めていた、佐伯正則君という指揮者から聞いて、外山先生を通じてお話の機会を頂き、フィンランドで勉強したいということをお話したらクイスマさんがまず、勉強するならヴァンスカさんだと、名前を挙げられました。 | |||||
| 菅野: | なんでパヌラじゃないの? | |||||
| 新田: | パヌラ先生はその頃はシベリウス・アカデミーの職はすでに離れていまして、メインの教授はセーゲルスタムに替わっていました。客員教授として籍はあるけれども現役の頃ほど活発ではなくて、むしろロシアや他のヨーロッパにかなりでかけられて、ヨーロッパ圏にはたくさんのお弟子さんを持っておられるようです。私からも直接オーケストラを通してお願いはしたんですが、クイスマさんからもラハティのヴァンスカ氏に推薦のお手紙を書いて下さって、それがちょうど1999年の来日公演の前だったんです。うまいタイミングでヴァンスカさんに話が届きまして、ちょうど行くから会いましょうということで、前回の東京でのシベリウスの全曲演奏会の初日にお会いすることが出来ました。いままでやって来たことをさらに深めて勉強したいということをお話しましたら快く、どうぞ、ということでした。 | |||||
| 菅野: | そうですか、そこで今のルートが決まりましたか。実にユニークな、他の指揮者の歩いてきた道の、誰のとも全く違う。 | |||||
| 新田: | 自分では回り道ばっかりだと思っているんですが…。 | |||||
| 菅野: | 回り道だと思われるだろうけど、総てに意味があって、無価値なものがないですね。しかも、なんていうか、新田さんならではのね、いい方向に行っていますね。 | |||||
| 3.シベリウスのレパートリーを今後どう生かしていくか | ||||||
| 菅野: | 今一つお伺いしたいことは、ヴァンスカのもとで勉強なさると、シベリウスのレパートリーにしても、慣行されている標準的な楽譜だけでなく、原典に遡ったりしてヒントを得られることが大きいと思います。その点で日本にも、世界にもそういう立場で研究している人はほとんどいない。それを今後どういうふうに生かしてゆかれますか。 | |||||
| 新田: | 今話に出ました楽譜についてなんですが、やはり現状、ヴァンスカさんがなさっていることを別のところで同じようにやるというのは実際は無理な状況なんですね。ただヴァンスカさんのご厚意で、ヴァンスカさんが所持しておられるオリジナル楽譜のコピーなどは、向こうで見せて頂いて、それを見て勉強することは私もやっています。 | |||||
| 菅野: | フォー・スタディならいいんでしょうけど、フォー・プレイのばあいは権利などの問題も出るでしょう。 | |||||
| 新田: | 憧れを別の形で世に出してゆくには、自分自身がベースになる勉強をしていっていないと信頼が得られないと思うので、ですから、少なくとも印刷で出されているものに関しては、初期のものも含めて幅広く勉強してゆくということを積んで自分の中身を確実にしてゆきたいです。そしておそらく皆さん、例えばオリジナルの第5シンフォニーやヴァイオリン・コンチェルトを実際聴いてみたいと思われていると思うのですが、それを実現させるには私がまず、何かフィンランドの方を納得させられるものを見せて行かないと無理だと思いますね。 | |||||
| 菅野: | フィンランドでのマエストラ新田の信頼度を高めることが前提ですね。 | |||||
| 新田: | そうですね。ヴァンスカさんもいまの状態になるまでには、非常に時間をかけていると伺っています。やっぱり長い時間をかけて遺族のかたを説得して…。 | |||||
| 菅野: | 我々は成功した人の前段階が見えなくて、目立つことを見て突然すごいことをしたという評価をしますけれども、それまでの苦心は大きいでしょうね。 | |||||
| 新田: | ええ。交渉して、研究のバックボーン等をきちんと話して、そういうことをしたうえでの、ああいう実現だったのです。日本で前回の来日公演の時に音を出した時も、あの時だけで、録音してはいけないという条件付きのものでしたので、ですからあれ以来、オリジナルの第5シンフォニーとエン・サガはフィンランドでも音は出していません。権利が発生するということで…。ですから、ヴァンスカでも難しいということを考えると、私がそれを出来るようになるまでにはまだ時間がかかるだろうと思います。 | |||||
| 菅野: | 着実なステップを踏んで、マエストラ新田は信頼に値する、託しても大丈夫な人だ、と言う期待感を獲得したうえでのことでしょうね。 | |||||
| 新田: | 自分が一番やりたくないことは、これは変な話ですけれども、音楽産業的なことと結びついて、メディアなどを使ってこういう価値があるから、というような説得の仕方はしたくないですね。もちろん世に出て行くためには宣伝や活動の起爆剤も必要なことは認識しています。でも先に本質と関係ない宣伝で煽るような傾向が多い現在の音楽産業界はあまり良い事ではないと思っています。きちんとした研究と実践で実績をあげたものを、メディアで紹介、評価していただくことは嬉しい事ですが。 | |||||
| 菅野: | 興味本位、話題に引きずられる、というのは本物ではないですね。現在、特にそういうことが多い時代ですからね。 | |||||
| 新田: | そうですね。それはどうしてもしたくないので時間がかかるだろうな、と思って覚悟しています。 | |||||
| 菅野: | 次に、このあいだのあなたのコンサートを伺って、普通の北欧音楽ファンでもあまり注目しない北欧の作品、あのときはフィンランドのカスキでしたが、さきほどもゲーゼの1番の話を伺った時もびっくりしたんですけれど、それを一つの例として、そういうものにも視線を注いでゆこうという、その辺の御意図をお聞かせください。 | |||||
| 新田: | さきほどなぜフィンランドかというところで触れなかったんですけれど、フィンランドを含めて、北欧に注目した理由は私には大きく3つあります。一つには子供の頃が札幌育ちだったということですね。これはもう、あそこの環境、北海道の冬の景色は自分に染み付いているのですね。ですから東京にいてもある意味で居心地が悪かった、いつも北に帰りたいと思っていた。で、ああいう環境の中でものごとが生まれ育ち、続いていくという空気が、やはり自分がナチュラルでいられる環境だな、それと同じものを北欧にも感じていた、というのが一つ。 二つ目は北欧の音楽、とくにフィンランドに関して言うと、ヨーロッパ大陸との接点を持ちはじめた時期が比較的遅いですね、シベリウスが生まれた1865年以降から彼等は本格的にヨーロッパとの音楽の交流が盛んになってきてますし、それを考えた時に、日本が西洋音楽と接してからの歩みとあまり時間的に変わらない。そこが非常に面白いと思っていました。しかし日本との歩み方が全く違うわけです。日本はまずは欧米の音楽を必死で学び受け入れて同じようになるまで切磋琢磨するという歩みでしたね。でも日本も今の時代は少しずつ変化もあって、ここ2、3年日本人作曲家に対しての日本人としての注目度が高まってきていると思うのです。しかし日本の作品への視線とか、姿勢とか、聴衆の受け入れ度とか、そうしたものと北欧での彼らの作曲家に対する姿勢を見た時にあまりに違う…。 | |||||
| 菅野: | 違いは実に大きいですね。 | |||||
| 新田: | 大きいですね。なぜそうなったのかというのを見てみたかったというのがあるんです。実際向こうに行った時に、やっぱり自分の国のものを大切にするということが、逆に他の国の文化への理解を深めるということになる、ということを彼等は知っている。自分がゼロの状態というのは、何も分からない、受け入れることは出来る。でも自分の中でいろいろ発酵させて戻す時に、何も姿のないものになっている、それが非常に日本だな、と。他の分野にも通じるのかもしれませんが、それを非常に感じました。何人か向こうのアーティストと話していて面白いのは、確かに僕たちはアメリカの音楽も面白いと思う、バーンスタインもカッコいいと思う、でもそんなに上手ではないわけですが、その時、上手じゃないことについて、別にそれでいいんだと思う、と言うんですね。僕たちは僕たちの言葉、文化の中ですることしか出来ないのだし、それをあちらの人とまったく同じにする必要はない、という話を何人かの人から聞いたんですね。 | |||||
| 菅野: | 今のおおかたの日本人みたいに、何でもかんでもアメリカの植民地みたいになる必要はないし、クラシック音楽はヨーロッパの模倣になることはないですからね。 | |||||
| 新田: | 彼等は自分のアイデンティティーを持った上ですべてやっている。フィンランド圏の作曲家たちも、いま現在でも2極に分かれていると思うのですけれども、ヨーロッパが前世紀末から歩んだコンテンポラリーを追求している人もいますし、まだ調性にこだわって、昔のスタイルでまだ生み出す余地があると追及している人もいますし。ただ、どっちにしてもそういう音楽を聴いて、一般的な聴衆が、特に音楽的な訓練を受けたわけでもない一般の聴衆が、普通にそれを受け取って楽しんでいるという状況ですね。ですから、本当に、演奏会で自国のものをやっている比率がものすごく高くて、それこそベートーヴェンのシンフォニーなんか何年ぶりだという楽団もある。ラハティもそうですね、運命のシンフォニーなんか、ほんと、5年ぶりだとか。ヘルシンキでも、ヘルシンキ・フィルで佐藤俊太郎さんがモーツァルトをやったんですけれども、これも12年ぶりだったということをおっしゃって、全然歩みというものが違うなということを感じたんですけれども、そういうところが面白かったというのと、あとは言語的なことですね。言葉、特にフィンランド語が持っている言葉のリズム、言葉の並び立ちが日本語と通じるところがある、そういうところからくる、彼等が元々持っている旋律への嗜好や…。 | |||||
| 菅野: | それにリズム、ゲルマン音楽との特にリズムの相違ね。 | |||||
| 新田: | そうですね、その辺が非常に共通性があるので、自分の中では、より深く分るのではないかという思いがあって、この3つで、北欧に対して目を向けていたのですけれども、その中で、シベリウス以外のものをたくさんやっているというのは、やっぱり彼ら、遅いスタートだったけども、決してさっき言ったような他の文化圏の、西洋音楽のスピードに無理して追いつかなかった分だけ、非常に独自性のある、たとえば作曲技法とか、理論的にいうと、なんで? と思うことがたくさんあると思うのですけれども(笑)それが新しい刺激となって音楽の可能性を出している曲がたくさんあると思うんですね。そして、ひとつ私がずっと思っていることは、いま21世紀になっていろいろ新しいことが生まれてきていますけれども、基本的な衣食住というのはそんなに変わってないですよね、何千年というあいだ。これが変らない間っていうのは、何て言うか、その人間の感性として本質的な部分もおそらくそんなに変らないだろうって。しかし音楽の一部だけが突出してしまって、脳味噌で作る音楽があまりに出来すぎてしまって…。 | |||||
| 菅野: | 脳味噌ならまだいいですが、時によるとコンピュータで音楽が出来ちゃいますからね。 | |||||
| 新田: | 理論だけで出来てしまっていますよね。いまその反動でルネッサンスに戻ってきていますけれども、フィンランドでは、そういう人間の五感というものと、あと人間がこの地球で生かされている、という感覚をものすごく持って作曲している作品が多いなっていうのがありまして、それというのは日本の昔のあり方ですね、いにしえの日本人が持っていた感覚ととても通じるものがあるな、だからこちらでやれば分るんじゃないかと。だから逆に日本の作品を向こうでする、弦楽オーケストラで何回かやったんですが。 | |||||
| 菅野: | そうですか。どういう曲を? | |||||
| 新田: | ええ、ラハティのメンバーの一部と弦楽アンサンブルを作ってやったんですが、たとえば小山清茂の「アイヌの唄」とか、芥川也寸志の「弦楽のためのトリプティク」とか、何も説明しなくても我々のリズムや旋律の歌いまわしとか、彼らが分かってくれたので、これは交流の可能性があるな、逆輸入ももちろん大丈夫だな、という感触を持ちました | |||||
| 4.最後に | ||||||
| 菅野: | もう時間があまりないのですが、こんなことを少し話し落としたというのがありましたらどうぞ。 | |||||
| 新田: | かなりいろいろしゃべってしまいましたが(笑)あとは、フィンランドの教育機関に接することがこの3年多かったわけですね。学校、あとは地域の音楽教室というかたちで。授業を担当させていただいたり、その学内演奏会を指揮したり…、そこに接してきていたので音楽の教育の方法というのを随分見ることが出来たんです。それがあまりにも日本と違うという。(笑)だから、何を大事にして音楽家を育てていっているか、というところが、やっぱり日本って間違っているという思いを非常に強くしていますので、そんなことも、日本で教育機関にもいま携わっていますので、学生には言うようにしているんです。 | |||||
| 菅野: | 定期的に指揮をしておられる演奏団体は、アマチュアでは何団体ですか? | |||||
| 新田: |
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| 菅野: | 今後新しくやってみたい、もしくは計画している活動などはありますか。 | |||||
| 新田: | オーケストラではとりあげにくい形式の編成の曲などをサロン・コンサートというかたちでやっています。2003年の12月から毎年春と冬に企画をしています。2003年12月は協会会員である駒ヶ嶺さんと水月さんにご登場いただきます。 | |||||
| 菅野: | シベリウス以外では? | |||||
| 新田: | カレヴィ・アホはラハティ響のレジデンス・コンポーザーでもあり、何度もお会いしています。夏に吹奏楽の作品を日本初演しましたが、今後特にオーケストラ作品を日本に紹介していきたいですね。ラウタヴァーラやクラミも順に取上げています。もっと新しい作曲家達、サロネンの作品も面白いですが、その世代も発掘していきたいと思っています。ヴァンスカも作品がありますよ。 | |||||
| 菅野: | うかがっていて夢と希望がふくらむようなお話でした。着実で、ユニークなご活躍が、限りなく展開されますように。 | |||||
| 新田: | はい、ありがとうございます。2003年には随分こうして自分の活動を知って頂く機会を頂けたことをとても感謝しています。2004年はフィンランドからヨウコ・ハルヤンネ氏(フィンランド放送響首席ソロトランペット奏者)をお招きしてのコラボレーション企画があります。素晴らしい作品とアーチィスト、オーケストラとの出会いを大切にして今後も世の中に魅力的な音を生み出していきたいと思ってます。 | |||||
日本シベリウス協会会報FINLANDIA2004年Spring号掲載インタビュー(対談 菅野浩和氏)
<無断転記ご遠慮ください>
[2009年1月28日 18:06]
このフィンランディでのインタビューは、私が提案してさせていただくのは3人目です。最初がヴァンスカで、次は大友直人さん。ヴァンスカは現在のフィンランドでとりわけ信頼できるマエストロとして、そして大友さんは現在の日本で、シベリウスに集中的な関心を持って取り組んでおられる指揮者としてです。つづいて私の目に留まったのがマエストラ新田で、シベリウスとフィンランド音楽への姿勢を最初から打ち出しておられる方です。
私の中で指揮者としてのスタートが遅かったですね。音楽に接したのはピアノが初めてだったのですけれども、昔から弦楽器にたいする憧れが非常に強くて。ただ、弦楽器とピアノを同時に習うことは無理でした。両立はいけませんという親の方針と家の都合でということで。そういう経緯があってオーケストラの音というものに非常に憧れを持って小さい頃から接していました。実は私の父はロシア語が専門なのです。それで、むしろ自分の中にはロシア音楽が子供の頃から入っていまして、父の仕事の関係で札幌にいた時期がけっこうありましたので、ああいう風土と相俟ってロシア音楽が身近にありました。父が大学で教えていたものでロシア人の講師の人とか、あと、父はテレビのNHKロシア語講座の初代講師だったのですが、それで教育テレビのロシア人講師の方なんかもずいぶん子供の頃からよく家に遊びに来ていたりして、そういう接点があったもので、専らロシアだったんですね。まあチャイコフスキーのピアノコンチェルトなど弾けもしないのに小学校二年の頃から弾ける所だけさらっていたり、そういうわけで音楽には小さい頃から接していたんですけど、ただ自分の環境としては、自分の周りにプロフェッショナルな音楽家がいなかったので、それを志すということは全くなかったんです。ただやっぱり、演奏する、音を出すことへの興味は非常に強くて、中学校の頃にはもう東京に移っていたんですけれども、学校に吹奏楽があった関係でアルトサクソフォンでアンサンブルを始めました。その後、高校が都立の両国高校で、そちらにクラブ活動でオーケストラがあったのです。そこは、素晴らしい作曲家であり指揮者でした芥川也寸志さんの、そのお父様の龍之介さんの出身校でもあるという関係で、也寸志さんも時々お見えになられたりしていました。オーケストラを作られたのは、もう退職されましたがN響でオーボエを吹かれていた似鳥健彦先生、あと作曲家の早川正昭先生、2人は同期ですが、あの2人が高校にオーケストラを作りまして、そのあともずっと続いている学校なんです。自分もそこに入りまして、その時初めてヴァイオリンをやっと手に持ったというか、憧れの楽器にやっと触れたというか、そこからはほんとにもうオーケストラの世界三昧だったわけです。もう日々スコアを見て、まあ高校生ですから、お金を出していろいろ買うということは出来なかったものですから、楽譜を写して自分で覚えるということをよくやっていました。
非常にたくさんあるんですけど、一年をとおしてのアマチュアですと8団体から10団体くらいありますね、前期、後期であわせて。あとは国立音楽大学と相愛大学で教えているので、そこの授業の演奏会が年に1回から2回ありまして、その間で、プロのオーケストラへ客演というスケジュールです。そして前に申し上げたラハティでの弦楽アンサンブル・イリスという活動も年に1回ほどですが、スケジュールを考えて組んでいきます。航空自衛隊にも吹奏楽団があるんですけれども、そこでも実はフィンランドの音楽特集というのでクリスマス・コンサートとして演奏会を行います。向こうの国防軍の音楽隊というところとやりとりして、あちらからいろいろ作品を送ってもらって2003年の12月5日と10日にやります。